小説『夜行秘密』_試し読みページ見出し

05 夜漁り

こうすけから借りたギターがスポットライトに照らされて、刺身みたいに輝いている。ボディ全体にラメが鏤められた、悪趣味なデザイン。ギラギラしたストラトキャスターは、肩からぶら下げてみると、SF映画の安っぽいコスプレみたいだった。これを見たファンは、おれを下品な人間だと思わないだろうか。不服に思いながらマイクスタンドの位置を直す。前を向くと、複数のカメラがこちらを睨みつけていた。

「じゃあ、バンド全体の演奏パート、あと三回くらい撮っていきます。リアリティ欲しいんで、本気で弾いちゃってください!」

ディレクターの指示が飛んで、その後、カウントダウンの声が響いた。五秒前。四、三、二。

ドラムの玄也がスティックでカウントを入れて、演奏が始まった。ブルーガールが『自転車』の次の曲としてリリースを予定している新曲、『City』。バンドの知名度を一気に押し上げた前作よりもキャッチーでありながら、予想できない構成を目指した。自分のバンドが一発屋で終わらないために、この日までストイックに曲作りに励んできたんだ。その自負を持って、おれはマイクに向かって叫んだ。この日、何度目の歌唱シーンか、わからない。

ミュージックビデオの監督となった宮部さんは、スタジオの入り口近くに設けられたモニター席で、おれたちの演奏を見守ってくれている。その表情はほとんど変わらなくて、撮影が順調なのか、うまくいっていないのか、見た目だけでは判断がつかない。

おれはそんな宮部さんの態度にも、腹が立っている。どうしたら演奏がうまそうに見えるか。どのように立てば格好良く見えるか。監督なのだから、もっとアドバイスをくれてもいいじゃないか。演者と議論しながら作るからこそ、最高のMVができるんじゃないのか。

撮影を開始してから、すでに三時間が経過していた。ほとんど発言をしない監督を、おれは一瞬だけ睨みつけた。

「いいんじゃない? この曲なら」

宮部さんがおれたちにそう伝えたのは、この撮影の一カ月前だ。一度、宮部さんにこっぴどく𠮟られてから、おれたちは改めて楽曲のコンセプトから考え直して、一切妥協せずに新たな楽曲『City』を作った。

再び事務所に呼び出されたおれたちは、宮部さんのそっけなくも肯定的なリアクションに、歓喜した。

「ブルーガールはさ、楽曲中に同じフレーズが二度出てこない破天荒さがウリじゃない? 徹底的にバラバラの構成がいいんだから、それを活かすために、フレーズごとに別の役者を立てて、群像劇にするの、どう? あ、バンド演奏は、その合間合間で瞬間的に、でも、断続的に流す。四分半の映画を作る感じかな。オチはまた考えるけど、全体の構成は、それでどう?」

ぶっちゃけて言うと、おれは宮部さんのアイデアを、特別おもしろくは感じなかった。もっと突飛な企画でもいいように思えた。でも、今回のミュージックビデオはブルーガールの新作でありながら、宮部あきら作品の新作として世に出る意味の方が大きくなる。そう考えると、宮部さんが挙げたアイデアは、いかにも宮部あきら作品らしく、一ファンとしても頼もしいものに思えた。

いくつかの段取りを経て、撮影はスタートした。宮部さんが自らキャスティングした役者の中には、宮部さんの出世作と言われる映画の主演俳優までいた。ブルーガールが提示した予算では絶対に動かないような俳優陣が、当たり前のようにカメラに映った。おれは単純に興奮した。

「これ、すげえよ。絶対バズるじゃん」

「な。俺たち、大変なことになっちゃうかもな」

玄也も、やっぱりおれと同じように思ったみたいだった。数カ月前までライブハウスにお客ひとりすら連れてこられなかったおれたちが、こんな作品を作ったのだ。ロケの時間は魔法のように輝かしく、いつか消えてしまうように思えた。

役者を起用したパートは、三日にわけて撮影された。その三日間のうち、おれたちが登場するシーンは一つもなかった。その後、別日にバンドの撮影予定が組まれた。都内にあるスタジオに呼ばれたブルーガールは、五時間に渡り、ひたすら同じ曲を演奏し続けた。おれは、どんなミュージックビデオになるのか、もはや想像もつかなかった。演奏している姿がいろんなアングルで切り取られていくことに、妙なエクスタシーを感じるだけだった。事実、おれは演奏中、勃起している自分に気付いて驚いた。

結局宮部さんは、撮影スタッフに指示をすることはあっても、おれたちに指示を出すことは一度たりともなかった。そのまま撮影が終わったので、おれは宮部さんに、少しの不満をぶつけた。

「あの、おれたち、これで大丈夫でしたか?」

「あ、うん。取れ高は十分」

「あ、違くて。こう、演技というか、演奏の印象というか、そういうの、大丈夫でしたか?」

「ああ。良かったと思うよ? あとはこっちで、編集とかするし」

一瞬だけ向けられた宮部さんの笑顔は、明らかな作り笑いだった。その直後に覗いた横顔には、不快感すら現れていた。スタジオから控え室へ向かう廊下は、やけに冷房が効いていて、肌寒いくらいだった。

楽器を片付けると、おれたちは追い出されるように撮影スタジオの外に出た。青かった空は黒く塗り替えられていて、雨でも降りそうな夜だった。中央街の大通りには無数のタクシーが渋滞を作っていた。

混雑している大通りと街の喧騒を見て、おれは今日が金曜日だと気付いた。宮部さんを飲みに誘ったら、いろいろ話を聞けるかもしれない。そう思ったが、バンドメンバーだけ先に帰された手前、こちらからは誘いづらかった。スタジオの入り口まで見送ってくれた宮部さんのマネージャーは、とても美人だった。でも、どこか疲れた様子が見えて、そのことをかわいそうにも感じた。

「お腹空かない? ご飯食べてこうよ」

地下鉄の駅まで歩いている途中で、ギターの康介が言った。康介は妊婦かとよく弄られる腹部を手でさすった。「リズム隊にデブが多いっていう偏見は、俺が全て覆すから」と以前スタジオで言っていたのを思い出して、笑いそうになる。ドラムの玄也とベースのとしひこも、飲みに行くことに賛同していた。おれはメンバーと飲みに行くなんて、しばらくしていなかったことに気付いた。

『自転車』がヒットしてから、ずっと曲作りに没頭していた。ここで気持ちを緩めると、本当に一発屋で終わってしまうと思って、これまで以上に必死に、音楽に向き合ってきた。その努力が報われて、こうして形になりそうなのだ。たまには飲みに行くのもいいかと賛同したかった。でも、おれには手持ちの金がなかった。

「今月、金ないからやめとくわ」

「え、そんな極貧? バイトは?」実家住まいでアルバイトもしていない俊彦が、鼻をフスフスと音立てながら、半笑いで言った。俊彦は知らぬ間にベースのエフェクターの数を増やしていた。おれは壊れたギターのスペアすら持っていない自分との環境の違いを、恨めしく思った。

『City』の制作に専念するために、しばらくアルバイトを休んでいた。『自転車』の配信数に応じたアーティストへの還元も、まだ先の支払いになる。貯金を崩して生活していたが、今回のMVの制作費もかかるから、早々に限界が近づく感覚があった。

生きていくには、金がいる。当たり前の事実に苦しめられるのが、しんどかった。スーパーで半額になった惣菜を買って、それを三日に分けて食べているとき、別れた彼女の顔が浮かんだ。凜ちゃんは、安い食材を見つけるのも、それを工夫して長く使うのもうまかったのだと、別れてからわかった。そんなときばかり凜ちゃんのことが浮かぶのもまた、彼女を家政婦か何かのように扱っていた証拠のように思い、情けなくなった。

電車を乗り継いで、一人で最寄り駅に着いた。四つしかない改札機が、退屈そうに並んでいる。おれは一番右端の広い改札機を通ろうとした。財布を改札機に擦り付ける。すると、残高不足を知らせるアナウンスが響いて、ゲートが閉まった。社会から排除されたような疎外感が残って、あとから恥ずかしくなる。舌打ちで、それを誤魔化した。

精算機の前で財布を開ける。千円札が二枚と、十円玉が三枚。これだけで今月は、残り十日を乗り越えなければならない。そう考えると、今のおれにはICカードに千円札をチャージできるほどの余裕はなかった。正直に言えば、百円程度の精算金額すら、惜しく感じた。

あれだけサブスクで楽曲が再生されて、知名度を得ても、現実では改札ひとつ潜れないのだ。そのことが酷く口惜しい。おれは周りに誰かいないか、それとなく確認した。小さな駅の改札には、駅員の姿すら見えなかった。

次の電車が到着するまで、あと五分ほどあった。

おれは携帯電話を取り出すと、SNSを開いて、自分の名前やバンド名で検索をかけた。いくつもの好意的な投稿が表示される。そのくらいで満たされてしまう自尊心が情けない一方で、ブルーガールを応援する言葉を見つけるたびに湧き出てくる勇気を、信じていたかった。

電車がホームに到着するアナウンスが聞こえた。一分もせずに、こちらに向けて複数の人影が向かってくる。おれは携帯をポケットにしまうと、ギターケースを背負い直した。いくつかの人影の中から、歩調がゆっくりとしている男に照準を定める。その男の後ろに、さりげなく近づいた。

改札を通過する直前。男の背中に張り付くようにして、一緒にゲートを、擦り抜ける。

通り過ぎた直後、ブザーが鳴った。体はすでにゲートを通過していたのに、扉が閉じるタイミングで、ギターケースがひっかかっていた。慌てて体を反らして、前方に逃げる。今度は前を歩いていた男にぶつかって、相手の踵を踏んでしまった。

男は振り返って、おれを見た。

顔を一瞬確認した後、背中のギターケースを見て、再度、おれの顔に視線を戻した。ホクロの数でも数えるように、ジロジロと見回された。

「キセル、した?」

男は短く、鋭い声で言った。暴力的な声だった。この人は、暴力を振るったことがある人だと、直感でわかった。おれは、自分の体が細い線のように、薄く萎んでいくのを感じた。

「してない、ですよ」

かぶりを振った。うまく言えた気がしなくて、「まさかそんな」と、余計なことも加えた。男は、おれの顔から目を離さなかった。これ以上は、何も言わないことを決めた。次に声を上げれば、付け込まれる予感がした。怯んだら負けだと直感した。背中と耳の先が、じわじわと熱くなった。背負っていたギターが、熱を持ったように感じた。

「本当に、してない? 調べれば、すぐにわかるけど」

男が顔を近づけた。本当にキセルをしていなかったとしても、「した」と言ってしまいそうな迫力があった。おれは悟られないように男の目を強く見返して、素早く頷いた。駅員に調べられたら、バレてしまうことは明白だった。どうにかその前に、男が去ることだけを願った。実際は五秒くらいだったのかもしれない。体感では三十秒ほど、男の顔が、鼻に触れそうなほど近くにあった。

「なら、いいんだけど」

そう言うと、男はおれから離れて、またゆっくり歩き出した。おれは、気付かれないように息を吐き、脱力した。膨張して固まった空気が、急に動き出すような感覚があった。汗がドッと吹き出て、体が再び皮膚呼吸を始めたのを感じる。大きくため息をつきたかったが、男の背中が見えなくなるまで、平常心を貫いた。

自宅の玄関を開けると、二十二時を過ぎていた。何も食べずに帰ってきたが、先ほどの緊張が抜けず、空腹はとっくに裏返っていた。おれは靴を脱ぐと同時に、ギターとエフェクターケースを床に下ろした。履いていた靴は、買った当初は丁寧に靴紐を解いてから脱いでいたのに、今は両足の踵を擦り合わせるようにして、脱ぎ捨てている。いつからこの脱ぎ方に切り替わってしまったのか、思い出そうとしたけれど浮かばなかった。

着替えることもなく、おれはそのままベッドに飛び込んだ。体重に負けて布団がズブズブと形を変えながら沈んでいく。このままどこまでも、潜っていけそうだった。

部屋の隅に置かれたベッドから、眼球だけを動かして部屋を見回した。凜ちゃんが出て行ってから、二カ月近く経つ。それでもこの瞳は、少し広くなった部屋をなかなか見慣れてくれない。

誰かが何かを、盗んでいったような気がしてしまう。もしかしたら実際に、盗まれたのかもしれない。「あるべきものがない」という意味では、きっと彼女の私物は、おれにとってはもうそこにあって当たり前のものだったのかもしれない。持ってきたのも彼女だったのに、盗んでいったのもまた、彼女だった。

「凜ちゃん」

布団に埋もれたまま、彼女の名前を呟いた。彼女が盗んでいったものは、部屋の荷物だけでなく、二人で過ごした時間と、自分の心までだったと、電気もついていない部屋で思った。

それでも、こちらからは連絡できない。

何度も携帯に凜ちゃんの連絡先を表示させたが、一度も送信ボタンは押さなかった。変な意地やプライドによるものだと、自分でもわかっている。でも、『自転車』の次の曲が世に出ていないうちは、連絡は許されないと思った。でないと、なんのために凜ちゃんを追い出したのか、わからなくなるからだ。

恋はきっと、そうした我儘の積み重ねでできている。相手を想ったフリをして、自分を肯定したり、失ったことをきっかけにして、悲劇の主人公を気取らせたりするためにある。凜ちゃんとの恋もきっと、そんな二人の我儘がバランスをとるように配置された結果、奇跡的に成り立つものだったのだ。

いつかそんな曲を作って、凜ちゃんに聴かせたい。そんなことを考えていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。その日、おれは、夜を漁るようにして抱き合っていた、あの頃のおれと凜ちゃんの夢を見た。

「音色くん、今夜空いてます? よかったら、飯でも」

空気が途端に乾燥し始めたように感じて、今シーズン初めてハンドクリームを買った日だった。ハンドクリームは油分が多いものだと演奏にも支障をきたしそうで、いつも好みのものを見つけるのに時間がかかる。ドラッグストアは女性向けのものは種類が豊富なくせに、男性ものはほとんど置かれない。それでも毎年買っているものをどうにか見つけ出して、一つ買う。そんなことから、秋の訪れを感じていた。自宅に戻り、今日の夕飯はどうするかと考えていたところに、宮部さんから連絡があった。

「ミュージックビデオのこともあるけど、飲んだことないし、どうだろう?」

宮部さんからのメールにはそう書かれていた。メンバー全員ではなく、自分にだけ個人的な連絡をもらえたことが、素直に嬉しかった。メールに添えられたURLは、中央街にあるおでん屋を指していた。

「すぐに行きます!」と送ると、「一人で始めてるから、ごゆっくり」とすぐに返事があった。おれはハンドクリームを一度塗りこんでから、デニムに財布を突っ込んで、家を出た。

ラッシュの時間帯と金曜の終電間際を除けば、地下鉄はそこまで混雑しない。都内に引っ越してから気付いたことだったが、この日も電車には人がまばらだった。中央街駅で降りると、まっすぐにおでん屋を目指した。

「ああ、お疲れ様」

店に着くと、入り口にほど近いカウンター席に座っていた宮部さんが、手を挙げた。十席程度のカウンターはとても狭く、座席の後ろは、人ひとり通るのがやっとのスペースしかなかった。ほかの客のリュックサックがいくつか壁にかかっていて、通路はさらに狭く思えた。

カウンター席は座面がやけに高かった。身長が低いおれは、ジャングルジムに登るように腕の力を使って、宮部さんの隣に腰掛けた。

「遅れてすみません」

「いやいや、急に呼び出してごめんよ。何飲む?」

差し出されたメニューは、太字の筆ペンで殴り書きされていて、うまく読むことができなかった。変わったものがあるわけではなさそうだとわかると、「とりあえず、生で」と店員に言った。

「あ、生ビール、これだけ種類がありまして」

店主と思われる男性が、メニューを裏返した。ビールだけで四種類書かれている。店主は自慢げにそれらを指さして、常識だと言わんばかりに、ひとつひとつ説明した。おれはこういう店が苦手だった。生ビールくらい一種類でいいし、食事に余計な脳を使わせないでほしいと、言いたくなった。

「一番普通のやつをください」

「じゃあ、琥珀ですね」

店主は残念そうに言って、キッチンに消えた。宮部さんは、こういう店が好きなのだろうか。そっと横顔を覗いたが、素知らぬ顔で携帯を触っていた。

「お忙しいんじゃないですか? おれなんかに時間割いて、良かったですか?」

座席に座り直して、声をかける。沈黙が怖い飲み会は、久しぶりだった。

「ああ、うん、まあ、忙しいのはいつもだから。ゆっくり話してみたかったし」

「宮部さんは、飲んでからも仕事ができる人ですか」

「うん。編集くらいなら、飲みながらの方が調子いいな」

「すごいです。おれ、一度飲んだらもう、曲も作詞もできないです」

「いや、それが普通だと思うよ」

宮部は少しも笑わずに言った。もう何杯目なのだろうか。撮影のときよりも赤茶けた肌をして、日本酒を舐めるように飲んでいた。

「音色くんも、忙しいでしょ。『自転車』、さらに伸びてるもんね」

「ああ、そうですね。なんか、あの曲だけ手の届かないところに行っちゃった感じで」

「どう? 有名になった気がする? モテるでしょ」

「いやいやいや! あの、今日も普通に、電車で来ましたよ」

おれはハハハと笑ってみたけれど、宮部さんの表情は少しも変わらなかった。何を考えているのか、相変わらずよくわからない。店主がビールを運んでくると、「それじゃあ、乾杯」と、宮部さんは冷酒の入ったおちょこをおれのグラスにかすめさせた。

あの宮部あきらと、二人で飲んでいる。おれは今の状況を客観的に振り返り、高揚した。帰り際に、店主に写真を撮ってもらおうと、そのことばかりが頭をよぎるようになった。肝心の宮部さんの話は、酒に酔っているのか、声が小さくて、ところどころ聞こえにくかった。

「音色くんは、影響受けてるアーティストとか、いるの?」

「え、あ、おれですか? おれ、前も言いましたけど、宮部さんの影響、めちゃくちゃ受けてますよ」

「いやいや、そういうんじゃなくてさ。バンドとか、音楽やってる人でさ」

そう言われて、おれは自分が音楽を始めたきっかけとなったアーティストの名前をひとつ挙げた。「ああー、そうなんだ。ちょっとわかるなあ。この前飲んだけどさ、雰囲気、ちょっと似てるよね? 歌詞も、どことなく共通点がある気がするよ」

おれはさらに興奮した。おれの好きな人が、好きな人と、飲んでいる? そんなの最高じゃないか。いいな。いつか自分も、そこに居合わせたいな。そんなことを思った。

「そのうち会わせてあげるよ。きっと音色くんのこと、彼も気になってると思う」

「え! いやいや、いいですよ。そんな。自分で、ちゃんと実力つけて、会います。それまで頑張りますから」

「そう? あいつ、そんなすごいかなあ」

宮部さんは冷酒を注ぐと、空になったとっくりを持ち上げて「同じものを」と店主に言った。もう何合目だろうか。酒が進むたびに声が小さくなっていく宮部さんのことが少し心配になった。日本酒はすぐに運ばれてきて、宮部さんはそれをまたおちょこに注いだ。それに口をつける前に、「ちょっとトイレ」と言って、ヨタヨタと便所に吸い込まれていった。

あっという間に二十一時を過ぎていた。それでも客はあまり増えてこないので、店の景気が悪いのだろうかと心配になった。達筆すぎるメニューを見返してみる。おでんの具材の値段を見たら、玉子ひとつに信じられないような価格が付けられていた。平日の夜から埋まるような店の単価ではないことを、把握した。

宮部さんはしばらく戻ってこなかった。待っている間に携帯を見ているのはなんだか失礼だと思ったので、おれはひたすらメニューを裏返したり、店内の食器の数を数えたりして、時間を潰した。皿を四十まで数えたところで、やっと宮部さんが、携帯を見ながら戻ってきた。

「で、あのMVなんだけどさ」

宮部さんは椅子に座り直すなり、言った。トイレで吐いたのだろうか。先ほどよりも、顔色が良くなっている気がした。

「いいもの作りたいじゃない? それで、いろいろ編集してるんだけどさ」

「はい」

「やっぱり俳優陣が強いじゃない、今回」

「ええ。本当に、すごかったです」

すかさず同意した。複数名の有名俳優は、どなたも宮部さんの声がけによる友情出演だった。そうでなければ、おれたちが用意しなければならない制作費は数十倍に膨らんでいただろう。

「それで、音色くんに、相談なんだけどさ」

嫌な予感がした。宮部さんがおれに相談なんて、するはずがないからだ。この人は全てを、自分で決める。だからきっと、今からする話は「相談」ではなく「説得」だ。宮部さんは続けた。

「今回のMV、バンドの演奏シーンを、なくしちゃダメかな?」

ストーリーに特化した方が、いろんな人が見てくれると思うのよ。ほら、最近、役者使ったショートムービーみたいなMV、多いじゃない。あれって、ただの流行じゃなくて、ちゃんと理由があるのよ。もうバンドは演奏シーンを求められてないっていうかさ、飽和してんのよ、結局。

急に饒舌になった宮部さんの声が、徐々に遠くなっていくように感じた。

おれは、宮部さんがこの話をするために自分を呼び出したのだと、このときになってようやく気付いた。ウカツだった。あの宮部あきらが、こんな新人ミュージシャンに興味を示すわけなかった。

ここまで散々楽しく話しておいて、まさかこの話を断る気はないだろう? 宮部さんはそう説得してくるような目をしていた。メンバーには、なんて言えばいいのか。自分たちが出演しないことで、ブルーガールはどのような印象のバンドとなるのか。おれには見当もつかなかった。

「考えさせてください」の一言も出てこないのは、宮部さんがもう、この話は終わりと言わんばかりに、携帯を見始めたからだった。

「あの、嫌だと言うつもりはないんですけど、念のため、メンバーとも話し合いたくて。拒否権とか、ないですよね?」

宮部あきらに逆らうべきではない。頭ではわかっていても、うまく咀嚼できなかった。ブルーガールの、初めてのミュージックビデオ。おれたちにとって譲れないものであることは、言うまでもなかった。

「んー、別にいいよ? ただ、バンドメンバーが出たところで、売れないと思うけどね」

宮部さんは、携帯から目を上げずに言った。

だったら、あの撮影の前に言ってくれれば良かったじゃないですか。当日だって、うちらのどこが悪くて、どうやったら格好良く見えるかって、教えてくれなかったじゃないですか。あの時間は、スタジオ代は、何だったんですか。その分の制作費も、うちが持つんですか。

おれは、言いたいことを喉元まで溜め込んで、ビールで一気に流し込んだ。

いいんだ。知名度だけなら、話題性だけなら、宮部あきらの作品は、間違いないんだ。

もう一度宮部さんの横顔を見た。まだ携帯電話を触っていた。「お忙しいですよね」と言うと「ああ、なんか、最近親しいAV女優がいてさ」と、画像を見せてきた。見たことがある人だった。それから、ミュージックビデオの話なんて最初からなかったように、AV女優とのやりとりを延々と聞かされた。

別れ際、「MVの件、任せてくれたら、大丈夫だから」と、宮部さんはさして重要でもないことのように言った。

宮部さんの言ったことが現実になったのは、おでん屋で飲んだ翌々日のことだった。ブルーガールのメンバー全員に送られた、ミュージックビデオの最終版。そこにおれたちの姿は、一秒たりとも映っていなかった。

「流石におかしいっしょ。クオリティは高いと思うけどさ、これもう、俺たちってわからないじゃん。俺たち、顔出ししないバンドにでもなんのか?」

一番怒っていたのは、ドラムの玄也だった。急遽集まることにしたおれたちは、バンド名を決めた古いファミレスのソファ席で、かれこれ二時間はミュージックビデオについて話していた。店内はFMラジオがかかっていて、相変わらずファミレスらしさを感じさせない、どこか殺伐とした雰囲気があった。

この映像を見て一番怒りそうだと予想した相手が、玄也だった。やはりその予感は的中したようで、玄也は長い黒髪を野武士のように頭にまとめなおしながら、もう一回観るわと、ノートPCの再生ボタンを押した。他の二人は、怒りというよりは失望に近い顔をして、退屈そうに腰掛けていた。玄也だけが、ひたすらに憤っていた。

「怪しいと思ってたんだよ。撮影中も一言も口出してこねえし。最初からこうするって決めてたんだろ」

「いや、宮部さんも、無駄な撮影をわざわざする人ではないと思う」と言ってから、おれは宮部さんを擁護している自分がなんだかいやらしく感じた。

玄也は「無駄な撮影ってなんだよ」と、また文句を垂れた。

「でも、宮部さんのMVは、客観的に見たら、いいものだとは思う」

ギターの康介が言った。四段のパンケーキを平らげたばかりで、少し眠そうにも思えた。おれもノートPCを覗き込んだ。確かにこれは、映画のようで、唯一無二のミュージックビデオになったと思う。きっと話題になるし、『自転車』の次の一手として、ふさわしいものにも思えた。高いクオリティだからこそ、玄也も怒っているのだ。このクオリティに自分たちの存在は相応しくなかったと、そう宣告された気がして、許せなかったのだ。

「宮部あきらはさあ」

玄也が言ったところで、その声が、誰かとハモった。おれたちは全身が針金になったように黙った。耳をそばだてる。店内BGMとして流れていたFMラジオ。パーソナリティの女性が、確かに「宮部あきら」と言った。

「今、宮部って」「しっ」

俊彦の声を慌てて封じた。ここ数日、よく聞いていた声が、スピーカーから流れてくる。

「宮部あきらです。よろしくお願いします」

「これ生放送?」康介が目を覚ました直後のように言う。おれたちは戸惑いながらも、放送に集中した。ラジオパーソナリティと宮部さんのやりとりは、自己紹介から近況報告に移っていく。

「宮部さん、最近公開された話題の映画の脚本も務めていますし、テレビCMも作ったりと、本当にお忙しいんじゃないですか?」

「まあ、慣れましたけどね。ずっと走ってないと、勘も鈍るので」

安定して低い宮部のテンションに、パーソナリティはやりにくそうだ。宮部さんの相手役は、毎回苦労するのだろうと思った。

「今日のテーマは〝怒り〟なんですけど、宮部さんは、最近怒ったことって、ありますか?」

怒りてえのはこっちだよ、と、玄也が言った。さっきから、ヘアゴムで髪を結んだり、解いたりしている。

「怒ったことですか? しょっちゅうですけどねー」宮部さんは笑いを取った後、淡々と言った。

「つい最近の話ですけど。あ、これ、生放送で言っていいのかな。ま、いいか。あの、若いミュージシャンから、仕事の依頼が来たんですよ」

おれは突然、知らない男にキセルを疑われた夜を思い出した。凜ちゃんが、泣きながら嘔吐した朝を思い出した。誰も客がいなかった、ライブハウスの光景を思い出した。その時と似たような、内臓を絞られるようなストレスが、襲いかかってきていた。止めようと思っても、店内のラジオは止めようがなかった。

「最近の若い人って、すぐ売れたいとか言うじゃないですか。そのギラギラした感じ、嫌いじゃないんですけど、でもちょっとね、薄っぺらいっていうか。いや、実力なくても売れる時代になったってことだと思うから、それ自体が悲しいですけどね。でも、そういうやつって現実を知らないしさ。微妙なんですよ、なんか。最近の売れそうなところ、マーケティングで狙いましたー、みたいな感じが透けて見えちゃってて。これ以上調子乗らないといいなーって、本当は思ってます。ははは」

その声が何かに遮られることは、最後までなかった。閑散とした店内に、宮部さんの声だけが、無慈悲に響いていた。