小説『夜行秘密』_試し読みページ見出し

02 左恋

またハズレだ、と、みやあきらは肩を落とした。宮部の事務所は、中央街の交差点からほど近くのところにある。大きな交差点は待ち合わせ場所にもよく使われるし、都心を走るタクシー運転手なら大半が知っている場所だった。宮部は道に詳しくない可能性もある運転手に配慮して、わざわざその交差点を行き先に指定した。我ながら親切すぎると思ったくらいだ。でも運転手は、宮部の配慮など気にも留めなかった。「どの道から行きますか」と聞き返すと、面倒臭そうにドアを閉めた。

「プロなんだから、黙って最短ルートを走ればいいだろうが」

宮部は思ったことをそのまま口にした。軽く舌打ちをして、大袈裟にため息をつく。運転手はすみませんと言って、すぐにウインカーを右側に出した。

最近、ハズレの運転手ばかり、引き当てる。

車が慌しく走り出すと、前の席に備え付けられた液晶画面に、見覚えのある動画広告が流れた。宮部はそれが数カ月前につくった自社の制作物だと気付くのに、少し時間がかかった。

この案件はたしか、広告代理店の担当営業がかなり美人で、ただ、性格がキツかったから、とにかく仕事がやりづらかった。女の顔には「案件を受注した自分が一番偉い」と常に書かれていて、クリエイティブを露骨に下に見ていた。ああいうタイプの女は大抵仕事ができないうえに、手柄は自分のものにしようとする。実際、あの営業が関わったせいで進行は遅れるばかりだったし、制作物もろくなものにならなかった。そのくせプライドは塔のように高く、打ち上げでホテルに誘っても、ハッキリ断ってきた。

宮部は女の顔を思い出して、無意識に顔をしかめた。

公開された広告を見返していても、やはり魅力に欠けている。クライアントの機嫌ばかり窺った結果、中途半端なクオリティの作品になった。自社が作ったものでなかったら、こうして目に留まることもないだろう。熱意は早々に失われ、ただの作業と化した案件の成果物が目の前に流れている。罰ゲームでも味わっている気分だった。

宮部は、嫌なことはすぐに忘れるようにしている。最近は記憶力も低下しているようで、よく一緒に仕事をしている取引先の名前すら、あっさりと忘れる。名刺交換をしても、先方のオフィスを出る頃にはその顔が思い出せなくなる。自分の関わった仕事の大半が、世に出る頃には他人のものに見える。思い入れがないわけではない。ただ、作り終わった瞬間に興味が失せるのだ。

それはセックスに似ているな、と宮部は思う。射精した直後から、さっきまで散々揉みしだき溺れるように舐め回した胸が、大きければ大きいほど不格好に見える。服を着ていない女の体は、冷静に見るほどだらしなく、間抜けに感じてしまう。

射精した直後にも愛おしいと思えるような女を、しばらく抱いていない。世に出た後にも思い入れがある仕事には、それ以上に出逢えていない。そのことを憂う心の余裕すら、どこかに落としてきてしまった。

常にやってくる仕事を、ひたすらこなす。邪魔なものは排除し、終われば次に向かう。その繰り返しだけが自分を高めて、人生を充実させてくれると、宮部は信じている。しかし、その生活にも少し、疲れつつあった。来月で四十になる。ここまで体力任せで走り切ってきたが、そろそろ効率的な働き方も考えなければならなかった。

環状線は予想通りの混雑具合で、タクシーはなかなか進まない。とはいえ、別に急ぎの案件があるわけでもないので宮部が焦る必要もなかった。

昨日の酒が、まだ残っていた。運転手の話を無視して、宮部は十五分眠った。

事務所の入ったビルの前に着くと、エントランスにマネージャーの姿が見えた。中央街の交差点から三分歩いただけで汗が噴き出てくるこの季節に、薄黄色のカーディガンを羽織っている。

コンビニ袋を手にぶら下げているのが、目についた。遅めの昼食だろうか? 市場調査が目的なら構わないが、理由もなくコンビニで飯を済ませるのは許し難いと、宮部は思った。

何かを作る仕事をしている以上、いかなるときも探究心を失ってはならない。中央街には無限にレストランが存在していて、どんな店でヒントを得られるかわからないのだ。片っ端から足を運ぶべきであり、それができないほど金銭的にも時間的にも余裕がないのなら、仕事を回すのが下手な証拠だと、部下には再三注意していた。時間や金銭に縛られて生きる人間を、宮部は心底哀れんでいた。

「新規案件のお返事が、四つ溜まってます。競合チェックはどれもクリアしていたので、受けるかどうか、ご確認いただきたいです」

挨拶もなしに話し出すことを、宮部は気に留めない。要件だけを話せと社員にいつも言っているので、むしろ正解に思う。マネージャーとはもう四年の付き合いになるが、これまで大きなミスもなくこなしてくれているので、心地良い。その心地良さに惹かれて一度抱こうとしたこともあるが、自宅の玄関まで来ておいて断られたので、それっきり夜の誘いはしていない。昼間の関係だけで成り立っている。それはそれで、宮部にとって稀有な存在だった。

「面白い案件ありそう?」

エレベーターに乗りながらマネージャーに尋ねる。あのタクシーアドのようなお堅い案件なら断ろうと思った。あまり金にならなくとも、今はもう少し退屈しない、派手な企画を考えたかった。

「派手なやつってことなら、一つだけ。アーティストのMV制作の依頼が来ています」

「お。有名どころ?」

「まだデビュー前なのですが、ブルーガールって、ご存じですか?」

「おー、バンドの? SNSでカバーされまくってるやつじゃん」

「そうです、そうです。そこから、新曲のMV制作の依頼です」

「俺に?」

いい度胸だな、と、宮部は感心した。宮部は受注金額の大きさよりも、新たなことに挑戦するような仕事に燃える。とくに快感を覚えるのは、逆転劇を演出できたときだ。弱者が強者に勝つ物語を、世界は求めている。まだ若い、メジャーにも出ていない新人が、仮にも世界規模で仕事をすることもある宮部にミュージックビデオの制作を依頼してきたことは、生意気だが良い一手だと宮部にも思えた。

宮部は会社の代表でありながら、初回のオリエンは必ず自分で行くと決めている。それはクリエイターとしてのプライドと、社員には任せられない不安からくるものだ。自分より優秀な人間が社内にいないことは、会社としては将来リスクになるとわかっている。それでも採用はこの数年間、思うように進んでいなかった。

得意先からプロジェクトの目的や予算を聞いている間、宮部はその仕事に、宇宙の隅まで触れられそうな無限の可能性を感じる。しかし、案件を会社に持ち帰り、あれこれと議論をぶつけているうちに、尖っていたはずの企画は徐々に丸くなり、現実的なところまで萎んでいってしまう。世に出た作品がどれだけ優れた企画だと言われても、あの宇宙の端を見るような、無限の可能性を感じられる瞬間には敵わない。制作物が完成した時にはすでに、宮部はその仕事に愛着をなくしている。

今回こそは、と思いながら、事前に配られた資料に目を通す。ブルーガールはまだ若いバンドだ。どのような作品が良いだろうか。デスクで資料を眺めながら、脳を回転させる。大きな窓から西日が強く差していて、この時間にやっとデスクについたことを、太陽が羨んでいるようにも見えた。これが俺の生活サイクルなのだから、文句を言わないでほしい。宮部はカーテンを閉めて、改めて資料を眺めた。

社員のいるフロアの電気が消えて、初めて二十二時を過ぎたことに気付いた。この時間まで仕事に没頭していたことに、宮部は驚く。最近は、集中力が途切れがちだ。何をしていても別のことに気を取られるし、プレゼン中にすら他のことを考えていたりする。その原因が疲れにあるのか、この仕事への飽きにあるのかは、自分でもわからない。

しかし、今日は久々に脳をうまく使えた気がする。よほどうまく緊張できていたのか、自覚した途端、腹がブググと音をたてた。朝から何も食べていないことに気付く。宮部は帰り支度を早々に済ませ、事務所を出た。

夏の夜の中央街は、トラックの排気口の前に立ったような、不快な風が絶え間なく吹いていた。アスファルトは日中に溜め込んだ熱を延々と吐き出し続けていて、歩道は香水と嘔吐物が混ざったような匂いが立ち込めている。

宮部は中央街の交差点まで出ると、携帯電話を開いた。社交辞令を含めたものもあるが、今夜もいくつかの飲みの誘いが来ている。その中のひとつに、ナイトクラブのURLがあった。数年前に宮部が脚本を務めた映画の主演俳優と、そのプロデューサーが飲んでいるらしい。プロデューサーはともかく、あの俳優とはまた仕事をしたかった。久しぶりの再会に、心が微かに躍った。

ナイトクラブは、交差点から徒歩で五、六分のところにある。宮部は数歩進むたびに匂いすら変わっていく中央街を緩やかに歩いた。途中、スーツ姿の男を何人も見かけて、仕事の効率が良くなるわけでもないのに夏場にジャケットまで着込む頭の悪さに辟易した。

宮部は秋口まで、ショートパンツとビーチサンダルで過ごす。リラックスした状態でいないと、アイデアは出てこないのだ。だが、果たしてこの格好でナイトクラブに入れるだろうか? 前は知人が顔を利かせてくれたが、あのクラブは、ドレスコードが厳しかった気がする。今度、ビーチサンダルと革靴が並んだ画を、どこかで撮りたいと、宮部は思った。

クラブのエントランス前に着いて、プロデューサーにメッセージを送る。すぐに折り返しで電話が掛かってきた。このプロデューサーは電話が好きだったな、と、宮部は思い出した。「大事な話なので」と急に電話を掛けてくる人間を、宮部は信用できない。大事な話こそ記録に残すようにメールやメッセンジャーを使うべきだし、口頭で片付けたくなる話には大抵、後ろめたさや利己的な狙いが隠されていると考えている。

「あーもしもし。着きましたか? じゃあすぐ迎え行くんで」

大音量で音楽がかかっているせいで大半は聞き取れなかったが、おそらく、男はそう言った。こうして騒がしい場所で電話を掛けてくるような配慮のなさが、やはり気に食わない。

「あー、お疲れ様です! お久しぶりです!」

怒りを処理できぬままエントランスの傍に立っていると、すぐにプロデューサーが警備員の脇を潜って現れた。

「あーどうも。あの、電話やめろって前に言いませんでしたっけ」

「あ、そうか、いや、すみません! 急ぎかなと思いまして!」

年上のくせにヘコヘコとする態度も、軽薄に映ってしまう。宮部が脚本を書いた映画は、主演俳優がこちらの希望通りの人選となった。それはこのプロデューサーの手腕があってこそだったから、一目置いてはいる。とはいえ、プライベートまで積極的に関わりたい人間ではないと、宮部は改めて思った。

「いやー来てくれるとは思わなかったすよ! 六年ぶりですよ、三人で飲むの」

六年。当時はまだ三十代前半で、二日、三日の徹夜なら勢いでなんとか乗り切れていた。最近はそこまでの体力もなければ、熱量を持つことも難しく感じる。ヒットを記録したあの映画を作れたのも、年齢に助けられた要素がおそらく大きい。

加齢を感じる一方、そういえばこのプロデューサーは全然老けないなと、宮部は肌艶の良いその顔を、じっくり観察した。

「アイツも喜んでましたよ。三人とも、あれからだいぶ出世しましたから。まあ、圧倒的なのは宮部さんでしたけど」

自身初となる長編映画の脚本で、宮部はいきなり複数の脚本賞を受賞した。ただの無名映像作家だった人間が、一夜にしてスターになる。時代の追い風を受け、宮部を取り巻く環境は激変した。勤めていた映画製作会社を退職し、家賃相場が最も高いといわれる中央街に個人事務所を構える。前職で優秀だった部下三名をヘッドハントしたほか、複数の社員を雇い、映像制作、脚本、コピーライティングなどの広告制作を手がける会社として、巨額の利益を生み出した。海外アーティストのミュージックビデオを担当したことからグローバル案件も増え、三十代のうちに、業界の第一線を走る人間としてメディアにも度々取り上げられるようになった。

主演を務めた俳優も、宮部との作品以降、仕事が途切れることがなくなった。ドラマや映画で主演クラスの配役を務めることは茶飯事となり、番宣がなくともバラエティやワイドショーに対応できる仕事の幅広さにも注目が集まった。有名女性誌の「抱かれたい男ランキング」で二年連続の一位を取ったときは、流石の宮部も嫉妬した。

二人に比べて大した変化がなかったのが、宮部の隣にいるプロデューサーである。そもそも映画プロデューサーという仕事は監督や脚本家に比べて、さらに黒子的な側面が大きい。メディアから注目されるほどの存在となるには、相当な数のヒット作を生み出さなければならない。このプロデューサーも、宮部と組んだあの作品が出世作と言われたきり、それにしがみつくように生きているようだった。モノづくりをするあらゆる人間は、代表作を持つことを目標としがちだ。実はそれよりも、代表作を更新することの方が遥かに困難であることを、宮部はよく知っている。

人には平等に運が降りてくると、宮部は信じている。ただ、その運を逃さず、しっかりと摑みきることができるのは、一握りの人間だけだ。宮部やあの俳優は、そのセンスがあった。このプロデューサーはチャンスをモノにしきれなかったのだ。宮部は目の前の男を哀れんだ。

「あ、ドリンク、あっちです。フードもちょっとはあるみたいですよ。俺たち、一つ上のソファ席いるんで、上がってきてください。オンナ口説くのはその後にしてくださいよ! なんつって!」

軽薄な笑顔で去っていくプロデューサーに、興醒めしている。あの俳優とは久々に近況報告などを交わしたかったが、間にあの男がいることで、いちいち話がつまらなくなりそうだった。フロアを見渡すと、平日なだけあって、暇で金がなさそうな人間が溢れている。DJまで哀愁が漂って見えるのは、かかっている音楽がドゥービー・ブラザーズだからか。先ほどまで高揚していた気分が一気に削がれていることに気付き、宮部は適当に女でも連れて、自宅で酒でも飲みたくなっていた。

宮部はクラブやライブハウスにいる女性バーテンダーによく好意を抱く。こういう場所で働く女の多くは、派手に遊ぶ金はない代わりに、レコードショップやライブハウス、映画館に通うのが好きで、宮部のようなクリエイターを崇拝してくれる。ブランドものや高級レストランに金を使うよりも、コンテンツやカルチャーに身銭を投じるような人間の方が、自分を拒むことは少ない。経験上、そのことを知っている。きっとカウンター越しにいる店員も、宮部の作った映画やミュージックビデオを何本かは見ている。何度かこちらの顔を見ていたから、目の前の男が宮部あきらだと気付いているだろう。

さて、どのように声を掛けようか。バーテンダーを自宅に連れ込むための戦略を考えていたところで、隣に並んでいた別の女が、突然声を掛けてきた。

「宮部あきらさんですよね?」

向こうから声を掛けてくるタイプの女は、大体は握手かサイン目的のミーハーだ。動員数が飛び抜けて多かった大衆作品しか知らないくせに「大ファンです」と抜かしてくる。宮部は上辺だけを撫でられたような気がして、そういう女と話すのが苦手だった。

適当に受け流して、バーテンダーの女に声を掛けよう。目の前でサインを書いている姿でも見せれば、俺が宮部あきらであることに彼女も確信が持てるはずだ。あとは彼女の勤務時間が終わるまで待って、家に連れ込めばいい。

頭の中でストーリーを組み立てながら、宮部は隣の女に生返事をする。どうせ三分後にはいなくなる女だからと、最低限の愛想笑いを浮かべた。

しかし、女から飛び出した台詞は、宮部の予想を大きく裏切った。

「宮部さんの書いたコラム、好きです! 映画批評の連載の、ヒッピー文化の考察のやつとか、最高でした!」

宮部は半分趣味で、怒られることはあっても褒められることはないコラム連載を続けていた。特に映画批評のコラムは、業界関係者から毎回非難が寄せられるほど、言いたい放題書かせてもらっていた。

宮部は呆気に取られたまま、答えた。

「あのコラムを褒められたのは、初めてだ」

「え、本当ですか!? それって、アタシがズレてるってことですか?」

「いやいやいや、そうじゃない」

普段なら、こういう頭の悪そうな喋り方をする女に、興味を示さない。広い額を見せつけるように中央で分けられた前髪も、やや吊り気味な目も、決してタイプと言えるものではなかった。でも、あのコラムを好きという人間には、何か自分と近い要素があるのではと、宮部は期待した。とみながなえと名乗ったその女に、宮部は応えた。

「君がズレてるのだとしたら、あれを書いた俺もズレてるってことになるから、つまり、俺たち二人だけ、世界からズレてるんだと思う」

女は宮部から視線を外して、堪えきれない様子で笑った。宮部は不可解に思ったが、不快には思わなかった。女は言った。

「宮部さんて、きちんと宮部あきらっぽいことを言うんですね」

女の笑顔の質が変わったことを、宮部は見抜いた。心を開いた人間が見せる笑顔というものを、宮部は知っていた。

「よかったら、映画の話とかしようよ。奢るから」

雨が降ったのだろうか。丑三つ時を過ぎた中央街通りは、僅かに気温が下がっていた。道路を照らすオレンジの街灯が、濡れたアスファルトに色を付けている。中央分離帯の傍に、ボロボロのスニーカーが片方だけ落ちていた。

「早苗さんは、どこに住んでるんだっけ?」

ナイトクラブから出てきたばかりの早苗に、宮部は尋ねた。この質問は、さっきもした気もする。脳が重たく、あまり覚えていない。

「友達と三人で、港南線沿いに住んでます。中央街一丁目まで出ちゃえば、一本です」

「あー、そうなんだ」

「宮部さんちは、この近くですか?」

「うん。タクシーで、すぐそこ」

外に出て初めて気付いたが、早苗の胸は、Tシャツ越しでもハッキリとわかるほど、ふくらみが大きかった。太っていると思っていたが、胸が大きいせいでそう見えていたのかもしれなかった。彼女は暑がりなようで、歩き始めてすぐに、首筋に汗を光らせた。首筋から鎖骨に流れる汗が、妖艶に思えた。

「俺、そこの交差点でタクシー乗っちゃうんだけど、よかったら、うちに来ない?」

中央街交差点を指差しながら、宮部は早苗を誘った。早苗はかなり酔っているようで、その言葉がちゃんと聞こえたのかもあやしかった。

にっこりと笑ってから、早苗は言った。

「宮部さんって、恋人いますか?」

ストレートに恋人の有無を聞かれたのは、久しぶりだった。しかし、特定の恋人も配偶者もいない宮部は、素直に答えるほかない。

「しばらく、いないかな」

「じゃあ、今日みたいに、女の子を取っ替え引っ替えしてるってことだ」

「言い方が良くない」

が、間違いでもない。

「アタシも、恋人とか別にいなくていいなあって思ってます。子供が嫌いだから結婚もしたくないし、恋愛とかも、面倒くさいし」

「わかる」

「アタシたち、やっぱりズレてるのかもしれないですね」

恋人がいらないと思っているなら、尚更抵抗はなかった。宮部は改めて、早苗を誘った。

「うち、来なよ」

車が二台ほど、通り過ぎた。次に来たタクシーに向けて、宮部は手を挙げた。

蟬の声が窓越しに響いて、そのけたたましさにたまらず目を覚ました。

ベッドの右の棚に置いてあった時計が、見当たらない。ブラインドで分割された陽の光を追う。西日だ。かなり深く寝てしまったようだった。

体中が渇いていて、喉がやけに痛い。何か飲もうと体を起こして、宮部は早苗がいないことに気付いた。

慌ててベッドから降りる。鋭い頭痛がした。そこまで飲んでいただろうか。つけっぱなしのエアコンのせいかもしれない。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、そのまま口を付けて飲んだ。

昨夜の記憶を思い起こす。タクシーに乗った早苗と、そのままマンションに向かった。玄関に入ってすぐに服を脱がそうとしたけれど、やんわりと断られたことを覚えている。

キスだけはした。たった一度だけだ。でも、そのキスで、俺たちはきっとさまざまなことで相性が良いのだと、なぜか宮部はそう直感した。そんなことは初めてだった。

早苗も、そのことに気付いたみたいだった。二人はその瞬間、確実に戸惑って、少し怖がっていた。これまで、少なくはない数の異性と関係を持ってきたはずなのに、たった一度唇を重ねただけで、全身に電気が走るような感覚を覚えたのだ。

それから宮部は、意識的に彼女の体に触れるのをやめた。部屋にあったバカルディを空けて、映画の話を少しして、以前コラムで取り上げたモノクロ映画をソファに腰掛けて観た。久々に観始めると途中でやめる空気にもならず、エンドロールを眺めながら、二人はその作品の考察を交わした。宮部はその時間が、ほかの女と体を重ねるよりも、何倍も魅力的に感じられた。そんな経験は、しばらくしていなかった。思えばナイトクラブから、ずっと話は尽きることがなかった。そのまま跳ねるように会話が続いて、気付けばまどろんで、眠ってしまったのだろうか。

おそらく肝心なところで、記憶が途切れている。部屋着に着替えたタイミングも覚えていない。

部屋を見回すと、ダイニングテーブルの上に、映画の台本が置いてあった。六年前に脚本を担当した、宮部の出世作と言われた長編映画のものだ。その裏表紙に、サインペンで何かが書かれている。宮部は古い台本を手に取ると、文字を追った。

『やっぱり私たちは、ズレてるんだと思います』

その一文のあとに、連絡先と「富永早苗」というフルネームが添えてあった。

ナイトクラブで出逢うような女とは、一夜限りの関係で十分だ。いつもはそう思うのに、なぜかこの時、宮部はすぐにまた早苗に会いたいと思った。

現実は、頭痛だけがひたすら脳を襲っていた。

事務所に着くと、いつも通りマネージャーが声を掛けてくる。少し疲れた顔をしているように見えたが、それはこちらも同じだ。宮部は早苗との記憶を探るのに集中したかった。二日酔いの不機嫌を隠さず、そのままマネージャーにぶつけた。

「今日、調子悪いから。急ぎじゃないなら、全部明日に回して」

マネージャーは顔色一つ変えずに、すぐにそれを受け入れる。

「では、一つだけ。ブルーガールのデモ音源がきたので、それだけ転送しておきます」

宮部の返事を待たずに、マネージャーは社長室を後にした。宮部はその後ろ姿を見送ってから、だらりと席に着く。

シャワーは浴びたはずだ。それなのに、体に早苗の匂いがこびりついている気がする。綺麗な匂いでは決してなかった。もっと生々しい、汗まじりの皮膚そのもののような匂い。でもそれが、決して不快にはならなかった。むしろその匂いで、宮部の下半身はわずかに反応していた。体が覚えている。ということは、やはり、抱いたのだろうか。宮部は携帯電話を取り出して、映画の台本の隅に書かれていた、早苗の連絡先を入力した。

「恥ずかしいくらいに、昨日のことを覚えていないんだけど、大丈夫だった?」

この文面が正解かどうかを考えるのも、面倒だった。送信ボタンを押して、テーブルの上に投げ置く。リクライニングに身を任せると、そのまま深く眠れそうな気がした。

PCを開くと、マネージャーからブルーガールのデモ音源が送られてきている。頭が働かないのなら、耳くらいは働かせようと、宮部はPCにイヤホンを繫いだ。

再生ボタンを押すと、イントロから平凡な四つ打ちが聴こえてきた。構成もサビのメロディラインも、邦楽にありがちだ。前に聴いた曲はまだ尖っていた気もするが、この曲は、売れようとするあまり、バンドの持っているオリジナリティが完全に死んでいる。

アーティストは、市場が求めるものと自身が作りたいものとのギャップに苦しみ、悩む生き物だ。その二つが合致する期間は、トップアーティストでもあまり長くはない。大体はバランスを崩して、売れなくても好きなものを作るか、徹底的に市場に媚びたものを作ることになる。

宮部は後者に傾倒する人間が嫌いだった。市場が求めるものを狙って作る、なんて芸当は簡単にできやしない。魂を売ったところで誰の心にも響かない駄作が出来上がるだけである。ブルーガールという若いバンドから、早くもその匂いがした。宮部は楽曲を最後まで聴かずに、イヤホンを放り投げた。

勢いをつけて立ち上がると、そのまま社員のいるフロアに向かう。マネージャーの姿を確認しないまま、宮部は声を荒らげた。

「ブルーガール、この曲だったらやらねえって先方に伝えて!」

フロアが一瞬静かになる。慌てる素振りもなくこちらに向かってきたマネージャーに、苛々した。

「お前これ聴いた? 酷いと思わなかった?」「いえ、悪くはなかったかと」「いや、悪いよ。めちゃくちゃ劣悪じゃん。耳どうかしてるって。こんな曲のMV作ってもダセぇもんしかできねえよ。俺に恥かかせるなって言ってるじゃん。なあ。得意先との適当な伝言ゲームさせるために雇ってんじゃねえんだよ。頭使えよ、少しは。顔ばっかり良くてもキャバ嬢とかにしかならねえだろ? それとも枕営業でもしてくれんの? なあ」

言いたいことが自分でもよくわからない。けれど、止まらない。マネージャーは頭を少し下げてから言った。

「すみません。では一度、ブルーガールと打ち合わせの場でも、設けさせていただけませんか。本人たちも、理由を聞かないと納得できないかと」

「いいだろハッキリ言っとけば。ミーハーなファンを踊らせるための売れ線音楽作りてえんだったら、俺みたいな本気でクリエイティブやりたい人間の視界に入ってくるなって伝えろよ。ガキだから何もわかってねえんだろ、きっと」

富永早苗に会いたいと思った。こんなに苛々するために生きているわけではない。優れた制作物を作りたいだけなのだ。宮部は威嚇するようにため息をついてから、社員フロアを出た。エアコンが壊れているのか、社員フロアはやけに蒸し暑く感じた。

携帯電話を覗くと、通知が一件来ていた。

「楽しかったから、また話聞いたり、ご飯行ったりしたいって思ってたところです」

今度こそ、全部覚えていたい。宮部は強くそう思った。