小説『夜行秘密』_試し読みページ見出し

03 夜風とハヤブサ

雑誌のページをめくった途端、一瞬、目が合った。そんな気がした。怖くなって、一息で別の特集までページをめくる。大丈夫。アタシは何も見ていない。

とっさのことに驚いたせいか、心臓が萎む音がした。深く息を吸って、元の大きさにふくらむのを待つ。落ち着いたところで、ページをめくるのを再開した。

指は、モノクロに印刷されたコラムコーナーで引っかかる。このページなら、大丈夫。宮部さんは、この雑誌に連載を持っていない。

ページを開いて、眺める。まずは見出しだけを見て、気になったものがあれば、本文を追う。すると、勘違いであってほしかった。そこにもやはり、彼の名前が見えた気がした。横目で確認すると、「宮部あきら」と、太字ではっきり書かれている。「新連載!」と仰々しく横に添えてあった。

これはもう、逃げきれない。アタシは自分の運の悪さに呆れた。半笑いで、雑誌を閉じる。

『やっぱり、音楽が好き』

表紙の特集名が、純粋さを演じているようでいて、フォントは妙にいやらしい。毎月、この美容室に来るたびに読んでいた雑誌のはずなのに、今月号は決定的に馴染めない。

雑誌から視線を外すと、自分以外の客が誰もいないことに気付いた。

暇を持て余したスタッフが、受付で談笑している。いっそアタシもいなければ、伸び伸びと話せるのだろうか。カラー剤の匂いだけは変わらず漂っていて、頭上には、ストーブのような機械がぐるぐると乾いた熱を吐き続けていた。土曜日の昼間にこの空き具合で、美容室という業態はやっていけるのだろうか。

手元に置かれた雑誌に、再び目をやる。普段、カラーやパーマのときは、二、三冊の雑誌を手元に置いてくれるのに、今日はなぜかこの一冊だけだ。

よりによって、宮部さんが二度も登場する『やっぱり、音楽が好き』特集号。

アタシはやむを得ず、再び雑誌を開いた。巻頭特集で、複数の文化人や著名人のインタビューが載っている。そのうちの一人に、宮部さんがいた。映像作家の肩書きで紹介された宮部さんは、世間の全てを見下したような目で、こちらを見ていた。

ついつい、こういう写真を使いたくなるんだよな。

フォトグラファーの狙いも、この写真を選んだ編集者の気持ちも、アタシには透けて見えた。

自分だったら、こんな写真は使わない。このカットは、世間がイメージする「宮部あきら」に、引っ張られすぎているからだ。ジャケットとかも、着せない方がいい。宮部さんにはいつもどおり、ハーフパンツとサンダルに、首元が開いたTシャツを合わせるべきだ。

あの人はリラックスした格好のときの方が、よっぽど賢そうな顔をする。無理にジャケットを羽織らせると、ついつい「デキるビジネスマン」みたいな顔をするんだ。スタイリストも、そのことには気付いていないんだろう。だからこんな、堅苦しい表情でしか写せない。

彼はビジネスマンではなく、クリエイターだ。たとえばアタシがフォトグラファーなら、彼を屋外にでも連れ出して、海の見える美術館とかに行って、彼が好きな、夏っぽい雰囲気で撮ったりする。実際、美術館に併設された庭園で彼を撮ったとき、アタシは、どんなメディアもファンも知らない、ほんとうの宮部さんを撮れた気がした。あの写真とかが、きっといい。フォトグラファーも雑誌編集者も、宮部さんの本当の姿を知らないんだ。

会ったこともない写真家と編集者に、腹を立てている自分に気付く。それは宮部さんの見せ方に不満があっただけではない。宮部さんと同じ現場にいて、同じ空気を吸っていたことへの嫉妬だと、わかっている。

誌面に写る宮部さんの眼差しが、ギラギラと尖って光る。あの人があらゆる物事に対して高圧的な態度を取ってしまうのは、彼特有の〝目〟を持っているせいだ。

宮部さんには、物事の真理が透けて見えている。世界がどのように動いていて、自分がどのように動けば、目標に辿り着けるのか。ゴールまでのルートのうち、極めて効率的な、正解とされる道だけがあの人には見えている。

その目のおかげか、その目のせいか。彼は正解がわかっているから、他者が不正解を選ぶことを許せない。他人に厳しくなってしまうのは、あの目が全ての原因なのだ。最短ルートを目指さない人間を、心から嘲笑う。目標に辿り着けない挫折者を、愚かだと切り捨てていく。

だから、彼はカメラから視線を外した時や、こちらを見ていない時の方が、純粋な一面を覗かせる。目を合わせてはいけない。そっと覗き見しているくらいが、「宮部あきら」ではない彼の本心が見えるのだ。

インタビュー本文にも、ざっと目を通してみる。受け答えの仕方は、いつも通りだ。内容は、いつもアタシに話してくれていたことと、アタシには一切聞かせたことのない話が、交互に続いていた。聞いた話を読むたび、優越感のようなものが訪れて、知らない話を読むたび、宮部さんがいつ、どこでそんなことを考えていたのかと、不安になる。一緒にいた二カ月の間、宮部さんは自分の考えをよく話してくれた。アタシ自身について尋ねることはほとんどなかったし、助言や意見を求めてくれたことは一度たりともなかったけれど、彼がどんな音楽を求めていて、どんな映画を退屈だと思い、どんな文学を好んで、どんなネット記事に憤っていたか、いつも話してくれていた。どこの天ぷらが美味しく、どこのレストランの接客が劣悪で、どこの陶磁器が美しく、どこのホテルが安っぽいと感じたか、その考えをずっと共有してくれた。

趣味、嗜好、性癖、偏見、持論。あらゆる情報を、細かなことまでアタシに話してくれていると、思っていた。そんなアタシでも知らない話が、雑誌に展開されている。宮部あきらという人物は、どこまで未知の領域を隠し持っていたのだろう。

インタビューのどこかに、アタシについての何かがひっそりと書かれてやしないかと、今度は記事の端まで目を走らせてみる。どんなことでも良かった。昔別れた女として描かれていてもいい。一緒に宮部さんの部屋で観たモノクロ映画の話でもいいし、関係者枠で入れてくれた、人気アーティストのライブの話でも良かった。宮部さんの頭のどこかに、自分がいやしないかと、探ってみた。

でも、それらは一つも出てこない。宮部さんは宮部あきらとして、真っ当な発言を終始続けた。このインタビューに向き合う宮部さんの瞳に、アタシは一ミリたりとも映っていない。仕事なのだから、それが当たり前だし、それこそが宮部あきらという人間であることを、アタシも知っていた。その事実を思い知ることになるから、アタシは雑誌やテレビに出る宮部さんの姿を、見ないようにしていたんだ。

あと一度でも、宮部さんの姿や考えに触れてしまえば、彼のところに帰りたい気持ちが、また渾々と湧いてきてしまう。欲は一見、澄んだ水のように無色透明で、無害なように思える。でも、実はどろどろと粘性を持って、今にも絡み付こうとしていることをアタシは知っている。今は、その欲が死ぬまで、アタシは宮部さんから距離を取って生きなければならない。

美容室を出ると、絵の具で塗ったようにベタっとした青一色の空が、頭上に広がっていた。九月の終わりに雨が降ったかと思うと、季節は突然姿を変えて、街は歩く人の数が増えた。昨年あまり出番がなかった薄手のコートが、心地良い風を受けて喜んでいた。

それでも気分が乗らないのは、きっと、過ぎた季節が愛おしいからだ。汗っかきゆえに厄介なことも多いけれど、夏は一つの生命体として、心と体が開放的になっていくのを感じられる。だから夏が好きだった。

ある日、そのことを宮部さんに伝えると、あの人は「ふうん、そう」と目も合わさずに返した。その後、付け加えるように「ああ、でも、俺も夏が好きかな。薄着でいられるから」と言って、すぐにアタシの服を脱がそうとしたんだ。その行動もまた、あの人らしさで溢れていた。

乾いた空気が肌を撫でる。誰かと手を繫ぎたくなった。JRで二駅乗れば、すぐに待ち合わせの場所に着く。約束の時間まではまだ余裕があるので、一駅ぶんくらいは歩いても良さそうだ。

隣駅までの距離を確認しようと、携帯電話を開く。一通のメッセージが届いていて、もちろん、宮部さんからではなかった。

「ごめんなさい、十分程度、遅れそうです」

今日、会う予定の人からだった。まだ直接会ったことのない、テキストと写真でしか、やりとりしたことのない人。直接会ったこともないくせに、アタシと付き合いたいと言ってきた人。

アタシも、誰でも良かった。隙間風を塞ぐために窓の縁にダンボールを押し込むような、軽い防衛手段に近かった。宮部さんと別れて以降、心のささくれを、いつまでもむしられていく感覚があった。それをできるなら早めに、誰かに止めてもらいたかった。

「誰でも良かった」と言う人の大半が、本当は誰でも良くないように、アタシもそれなりに相手を吟味した。そこそこの顔面と、そこそこのステータスと、そこそこのユーモア。万が一、初対面にして一緒に朝を迎えるようなことがあったとしても、自尊心が傷つかない程度の相手。マッチングアプリを使うのは初めてだったが、目的はなんであれ、複数の異性から同時多発的に興味を示してもらえるのは、それだけで自尊心が回復するような、不思議な感覚があった。たった一人にさえ大切にされなかった女だ。突然チヤホヤされたら、勘違いしてもおかしくはない気がした。

五名くらいとやりとりした結果、一名に絞って、実際に会うことになった。会員登録から会うに至るまで、一週間も経っていない。愛はスーパーやコンビニに行くよりも気軽に買える時代になったと、馬鹿みたいなことを思った。

そうした経緯で今日、初対面を迎えるこの二十五歳の男性は、わずか十分程度の遅れでわざわざアタシに連絡をくれた。まめな人だと思った。保険会社勤務という職業ゆえのものだろうか。宮部さんは、十五分程度の遅刻なら、絶対に連絡してこなかった。過去に付き合った男のせいで、恋人に求めるハードルが下がっていることに気付いて、可笑しくなった。

「ゆっくりで大丈夫です!」

返事を打つと、携帯を鞄にしまった。相手が待ち合わせに遅れるとわかると、心が穏やかになるのは何故だろうか。時間にゆとりができた。それだけではない気がする。急に街の空気が緩くなるような、ストレスから解放された感覚があった。

もしかしたら、アタシは、この人に会いたくないのかもしれない。

そう思うと、足元がずるりと重くなる。ビルの窓に反射した自分の姿は、夏の頃よりだいぶマシに見えた。ゆるく巻いてもらったばかりの髪が、ふわふわと風に揺れていた。

本当は、宮部さんに見てもらいたかったのに。

湧いて出てくる本音を握り潰して、視線を前に戻した。

携帯電話が示す道順に従って歩いていると、大通りにぶつかる。片道三車線を跨いだ横断歩道の先に、見覚えのあるカラオケ店が見えた。

宮部さんと二人で会うようになって、四度目くらいのことだったか。突然、予想していなかった大雨が降った。バーから出てきたアタシたちは、タクシーを呼ぶのも億劫で、たまたま目に入ったこのカラオケ店に入ったのだ。

「宮部さん、カラオケで歌うイメージとかないです」

「行かないなあ。苦手だし。俺は聴く専門でいいよ」

宮部さんは案の定、歌いたがらなかった。彼は自分の得手不得手を理解していて、得意なものなら積極的に人に見せようとした。その日までカラオケに誘われないということは、つまり、歌はそれほどうまくはないのだろうとアタシは予想した。

しかし、好きな人の歌声というのは、どうしてあんなにも心地良く聞こえるものだろうか。特別うまいわけじゃない。たまに擦れたり、音を外したりもする。でもその瞬間こそが、たまらなく愛おしい。アタシは宮部さんが面倒臭そうにマイクを手に取るたび、その横顔と首筋に浮かんだ血管、かすれた声に酔いしれた。曲が終わるたびに少し照れた仕草を見せる宮部さんの顔は、大人の色気と少年の無邪気さを合わせもった、妙な妖艶さがあった。

カラオケ店の前まで来て、思い出す。あの日は、相当酔っ払っていた。もうすぐ三十になるというのに、いまだにお酒の飲み方を憶えない。宮部さんも、少なくともアタシといるときは、酷く酔っぱらうようだった。人間にはいろんな相性がある。でも、一緒にお酒を飲むとおもしろいくらい簡単に酔える関係というのは、生まれて初めてだった。

夜が深くなるに連れて、アタシたちは立ってもいられなくなった。文字通り支え合うようにしながら、カラオケ店を後にした。汗と雨が混じった宮部さんだけの匂いが、アタシに染み付いていくように感じた。

そんな日が、夏の間にいくつもあった。

戻れない一夜を思い出しながら、季節が変わったことを改めて実感する。あの恋はたぶん、夏の夜だけに起こる、マジックみたいなものだったのだ。マジックなのだから、タネも仕掛けも存在している。一度トリックを見破れば、それが大したことのないものだったと気付ける。でも、たぶん、まだアタシは、宮部さんのマジックにかかったままだ。段差のないところで転ぶように、きっかけもなく元恋人が頭に浮かぶ。早くこの状況を改善しないと、自分が自分ではいられなくなってしまう気がした。

「早苗さんですか」

待ち合わせ場所に着いて、五分経ったところだった。細く、頼りなさそうな高い声が聞こえた。振り向くと、この数日連絡を交わしていた、アイコンの男性が立っていた。

テキストからは想像もつかない声だった。もっと知性に溢れた声をしていると思っていた。猫背がやけに目についた。写真では誤魔化していたかと思うと、ずいぶん不誠実に感じられた。もっと落ち着いた、自信に満ちた人なのかと思った。実際に現れた男は、どこか気迫が足りず、戸惑いに満ちていた。

――宮部さんと比べたから、そう思ったのではないか?

指摘する内なる声に、アタシは驚いた。忘れたくて別の人と会うことにしたのに、一層強くあの人を思い出してしまう。これではわざわざ会ってくれる人に対して、申し訳なかった。

「遅れてしまって、すみません」

男が軽く頭を下げると、ますます猫背が強調された。優しそうな顔だ。清潔感もある。身長は想像よりもはるかに高い。でも、必要最低限の脂肪すらなさそうな体は、不健康そうにも見える。年齢は近かったはずなのに、ずいぶん幼く感じられた。

宮部さんも、初めて見たアタシを、こんなふうに品定めしたのだろうか。

体が太そうだとか、足が短そうだとか、化粧が濃いとか、胸がでかいとか、頭が悪そうとか? 性的な目でしか見られていなかったのか、ヒトとして興味を持ってもらえていたのか。二カ月一緒にいても、わからないまま終わってしまったことばかりだ。

宮部さんの存在を初めて知ったのは、いつだったか。多くの人は、やはり初脚本にして大ヒットを記録したあの長編映画を挙げるだろう。アタシは、その作品よりももう少し前から、彼を知っていた。

当時付き合っていた男性と別れた夜、たまたま通りがかったミニシアターで、レイトショーが開かれていた。知らない演者と、知らないタイトル、知らない脚本家。誰にも知られることなく恋を終えたアタシには、誰も知らない作品がちょうど良いと思った。

そのレイトショーの後に、トークイベントが開かれた。作品には一切関わっていない映像作家がひとりで登壇して、好き勝手に二十分話した。その人が、宮部さんだった。

その日の宮部さんはオフホワイトのTシャツの上に、皺だらけのカーキのロングシャツを羽織って、ハーフパンツから細い足を覗かせていた。すねに生えている毛の量が個人的に好みだった。なぜかそんなことを覚えている。当時の彼はまだ三十代前半特有の、怖いもの知らずのような勢いを纏っていて、頰にも張りがあった。威圧感すら感じさせるほどに、その目は鋭かった。

宮部さんはアタシを含めても数名しかいない客席に向かって、上映されたばかりの映画をひたすら酷評した。聞いているこちらが気まずく感じる話ばかりで、いたたまれず、なぜかそれが面白くなってしまって、アタシは笑った。こんな風に、他人が作った作品の粗探しばかりしてしまう人が作る作品は、きっと妙に説教臭くて、ものすごくつまらないだろうと思った。

アタシはそこから、「宮部あきら」の活動を追いかけるようになった。手掛けた作品はできる限り追って、遡れる限りのインタビュー記事を読み込んでみた。そこまで興味を持てたのは、彼の手掛ける作品が思いのほか、おもしろかったからだ。とはいえ、まさかその人が大ヒット作品を作り、一躍時の人となるとは想像もつかなかった。

これまでも、アイドルや俳優に夢中になることはあった。でもたった一人の、縁もゆかりもなかったクリエイターに、そこまで執着したのは初めてだ。宮部あきらという存在を知り尽くさないと、心が落ち着かなかった。恋人もいなくなり、会社でも代わりの利く仕事ばかりだったアタシにとって、宮部あきらという存在が唯一、人生に色をつけていた。

そして、宮部さんの存在を知った七年後。

プライベートの宮部さんを初めて見たのが、あの中央街のナイトクラブだった。見知った顔が、会場の隅にいた。最初は知り合いかと思ったが、数秒たって気付く。一方的に、自分が見過ぎた顔だった。

「宮部あきらさんですよね?」

話しかけることに、なんの躊躇もなかった。もっと緊張してもよかったのに、なぜかアタシはあのとき、ようやく繫がれたと、そんな勘違いをした。

宮部さんは少し疲れた様子でいた。でも、アタシが彼の書いたコラムの話をすると、本当に嬉しそうに、いろんなことを聞かせてくれた。他のお客さんはどんどんいなくなって、その度アタシたちの声は大きくなった。お酒は何杯でも飲めてしまいそうだった。

宮部さんはインタビューやエッセイでは決して見せない顔を、たくさんアタシに見せてくれた。その一つ一つが新鮮で、僅か数時間のことだろうか、アタシはナイトクラブにいる間に「宮部あきら」ではなく、目の前の宮部さんを、好きになりつつあった。

それは危険なことだと、頭の中のアルコールに浸っていない部分が警告していた。宮部さんの話し方や、目の合わせ方、アタシを褒めるタイミングや、エスコートの手際の良さ。それらは、どうすれば人は心地良く感じるかを熟知している人のそれだった。この人はいつもこうやって、自分に好意を見せた女性を罠にかけては、欲と共に夜を過ごしているに違いなかった。

「その他大勢」のうちの一人に、今夜、自分もカウントされようとしている。冷静な嫌悪感は確かに存在しているのに、目の前の男を、憎むことができない。誘われるがまま、この人とどこまででも沈んでみたいと、酒に吞まれた体が叫んでいた。

その日から、どうして自分が、宮部さんに選ばれるようになったかはわからない。アタシと宮部さんは、この夏の多くの時間を一緒に過ごすことになった。

もちろん、あの宮部あきらだ。急に突き放してくることも多々ある。三日、四日と連絡が返ってこなかったかと思えば、急に会いたいと言われて呼び出される日もあった。朝まで一緒にいられるかと思いきや、タクシー代を渡されて追い出された夜も、一度ではない。会う前の文面からはノリの良さを感じられたのに、会ってみたらぶっきらぼうだった日もある。一人で映画を観る気分じゃないからと急に呼ばれた日や、役所への提出書類がどうしても出せないから付き合ってほしいと甘えられた日もあった。

保護者なのか、恋人なのか、便利な友人なのか。よくわからない距離感だからこそ湧き出る甘い快楽の泉にアタシは溺れていた。性欲処理の道具として扱われるだけなら、こっちだってそれなりの割り切りができたのだ。出逢った日の夜に「恋人はいらない」と言ったのはアタシの本音だったし、一人の男に執着するのはもうしばらくやめようと、本気で思っていた。好きになった人から裏切られるダメージは、何よりも深く心に傷を作ると、身をもって知っていた。

人を深くまで信頼せずに暮らすのが、機嫌良く生きる方法だ。たとえその相手が、ずっと憧れ続けていた宮部さんであったとしても、アタシは適度な距離を保っていたかった。いつからその距離は、崩れてしまったのだろうか? 顔を合わせるたび、体を重ねるたび、連絡をもらうたび、宮部さんの存在は、日毎に大きくなっていった。一番依存してはいけないタイプの人間だと分かっていても、電話が鳴る瞬間を待ってしまう自分がいた。

今年は例年より数日遅く、梅雨明けが宣言された。流れる汗すら蒸発しそうな夏が本格的に始まる頃には、どう足搔いても、宮部さんの手のひらから降りられなくなっていた。

「早苗さんは、失恋したばかりなんでしたっけ」

鼻にかかる声を聞いて、顔を上げる。そうだ、もう季節は、秋になったのだ。向かいの席に座った男性は、ホットのドリップコーヒーを飲んでいる。さすがにホットドリンクを頼むほど、寒くはないのではないか。指摘したい気持ちを抑えて、自分のアイスレモネードを口にした。

「改まって言われると恥ずかしいですけど、別れて一カ月くらいです」

「フッた側ですか? フラれた側ですか?」

「えー、それ、聞いてどうするんですか?」

「いや、フッた側だったら、まだラクだろうから」

「フッた側って、ラクですか?」

「フラれる方は被害者ですから。絶対にしんどいのは、被害者です」

「ええ? そうですか?」

「そうですよ、フッておいてしんどいとか思うの、勝手すぎません? 加害者なんだから、被害者ヅラすんなよって思いますよ。どう考えてもフラれた方がきついんだから、加害者に弁解の余地はないです」

自信満々に、目の前の男は言った。

「じゃあ、例えばアタシたちが付き合ったら、別れる時は、どうします?」

「いや、それは、僕をフッてほしいです」

「え、なんでですか? フラれる方がしんどいとわかってるのに?」

「早苗さんがしんどくない方を、選んでほしいから」

優しい男だとは思う。でも、その優しさから感じる薄っぺらさは何なのだろうか。どこか偏見に満ちた甘さ、実体の伴わない台詞のように思えて、違和感が拭えない。

仮にも好きだった人に対して、自ら別れを告げなきゃいけないのに、そこに苦しみや悲しさを伴わないわけがない。もしも何の未練もなくフることができたなら、相手をそこまで愛していなかったのではないか。それとも、全く愛せないほど、関係が壊れてしまっていたのか。

恋人との別れの理由にできそうなものなんて、本当はきっと、探せば無数にあるのだ。でも、そのどれもが、相手を傷つけないために言うべきではなかったり、関係を繫ぎとめるために我慢したりしているものだったりする。

それでも、終わらせなければならない恋は、あるのだろう。まだ好きなままだけれど、お互いのためにも、もしくはこれからの自分の人生のためにも、終わらせなきゃいけない恋というのは、きっとある。

たとえそれが、どれだけ醜いきっかけから始まった結末だったとしても、だ。

日本海に大量のクラゲが出た。国内では珍しい量だとニュースが告げた。夏の終わりらしい出来事をテレビで見届け、アタシは宮部さんの家に向かっていた。月替わりのカレンダーはもうすぐめくられようとしているのに、相変わらず日の光は、強く肌を刺していた。サンダルが地面に触れるたび、ソールがベタベタと溶けるような感覚が残った。

宮部さんのマンションの合鍵を受け取ったのは、その日の二週間前だった。事前に連絡をくれれば、その鍵で入っていいよと、宮部さんはあっさり言った。

二十八年生きてきて、人生で初めて、合鍵をもらった。これが一般的な恋人同士ならば、結婚を意識したり、同棲間近な展開にテンションが上がったりしたのかもしれない。でも、アタシの中では、感動よりも先に、戸惑いの方が大きくふくらんだ。

宮部さんの部屋は、たまにアタシの知らない香りで包まれていた。その香りは明らかに女性によるもので、ただそれが、どこの誰がつけていったものなのかは、いつもわからないままだった。

その匂いについて、触れてはいけない。問い質してしまえば、きっと知りたくない事実が待っている。本能がいつもそう叫んで、アタシは真相を聞かぬまま、彼の家のベッドを揺らしていた。

こんなにも信用できない関係だ。恋人でもないアタシに合鍵を渡して、この人は、大丈夫なのだろうか? もう、そういう遊び方はしない、という証明なのか。はたまた、どの女の人にも鍵を渡していて、鉢合わせても構わないと思っているのか。

彼が優しいときほど、裏がある予感がして、その後に待ち受ける悲しみが、怖かった。だからできるだけ、もらった合鍵は使わないで済むようにしていたのだ。自分の第六感が告げる嫌な予感が、的中しないように。

それなのに、その日、アタシの配慮は、あっさりと無下にされた。

いつもどおり事前に連絡を入れて、宮部さんが家にいることを確かめた。家にいるよと言うから、マンションに向かった。そのまま入っていいと連絡が来ていたので、エントランスを抜け、玄関を開けた。

すると、そこに知らない靴が置いてあった。どう見ても、女性用のもの。それも、アタシが決して履かないような、ハイブランドのパンプス。

その靴を見た途端、脳が凍ったように、思考が働かなくなった。部屋の中からは、宮部さんと、女の声が聞こえた。アタシは靴をしばらく見つめてから、後退りして、ゆっくりとドアをしめた。

この状況を、あの人はどうしたいのだろう?

宮部さんの考えていることが、全くわからなかった。あれは、誰の靴で、どう言い訳を立てたら、アタシにそれを見せても良いと、思えたのだろうか。

いくら考えようとしても、頭は混乱状態から抜け出せそうになかった。

気が動転していた。廊下の隅で立ち尽くしていた。アタシは、女が出ていくまで待とうと思って、階段の影に隠れることにした。どうして、その場を立ち去らなかったのか。今でもあの時の自分の行動は、不可解だ。何分、何時間だろうか。待っている間、これまで、見て見ぬフリで済ませていた宮部さんの行動が、全て脳内に思い起こされていた。連絡がつかない日はどこにいたのか。セックス中に何度も震えた携帯電話は誰からの連絡だったのか。アタシが出てこない思い出話は誰との経験のものなのか。アタシにはつけないくせに、コンスタントに減っていく避妊具は誰に使われていたのか。

きっと、アタシ以外にも女がいるのだ。そんなことは、調べるまでもなくわかっていた。他の女性とも関係を持っていたところで、宮部さんはアタシを裏切ったわけではない。契約なんて結んでいないし、そもそもアタシたちは、付き合ったことになんて、一度もなっていないのだ。お互いに独身だし、出逢ったときに「恋人なんかいらない」とお互いに話した。この二カ月、ベッドの上ですら「好き」と伝えなかったアタシは、必死に気持ちを殺して、曖昧でも彼の傍にいる道を選んできたのだ。

だから今回も、あの靴を見て見ぬフリすれば、アタシたちの関係はずっと続けられる。付き合ってもいないのだから、始まってもいない。始まらないなら、終わりも来ない。その距離感を保っている限りは、アタシは特等席で、宮部さんの歩む道を見ていられるんだ。大丈夫。大丈夫。全て忘れて、今日は帰って、全部なかったことにして、それで、また、これまで通りの関係を続ければ。

そこまで、脳を働かせることはできた。階段の隅にしゃがみ込んで、じっと動かないようにしている間、他の住民に見られなかったことが幸いだった。こんな惨めな姿は、誰にも見られたくなかった。

今日はもう、このまま帰ろうと、エレベーターホールに足を向けたその時だった。ガチャリ、と聞き慣れた音がした。咄嗟に音のした方に振り向くと、宮部さんが、いた。知らない女の肩をだきながら、立っていた。

女の外見については、ほとんど覚えていない。この期に及んでアタシは、宮部さんのことばかり見ていた。ただ、アタシとは全然違う見た目の女だったことだけ、覚えている。髪色も、洋服のセンスも、背丈も、細い体も。

宮部さんは、アタシと目があってもなお、顔色ひとつ変えずにじっとこちらを見つめていた。今思えばあれも、いつもどおりの宮部さんだった。それなのに、あの時のアタシには、あの宮部さんは宮部さんに似せたアンドロイドか何かのように見えた。

「その人の、どこがいいんですか?」

二人に、尋ねていた。尋ねられた男女は、黙って、アタシを見ていた。質問は、二人ともに投げたつもりだった。哀れんだ目だけが、アタシを刺していた。蔑むような目で、こちらを見ていた。

「この状況すら、見て見ぬふりして、許容しろって、言いたいんですか?」

沈黙が怖かった。こちらが弱いところを見せたら、そのまま、存在が消されてしまいそうな予感がした。アタシは、宮部さんに話し続けた。

「確かにアタシは、恋人じゃないですけど。でも、期待させたのはそっちじゃないですか。ずっとずっと、弄んでたのは、そっちじゃないですか。我慢してたのはこっちだけで、好き勝手に楽しんでたのは宮部さんじゃないですか。なんでこんなことできるんですか? アタシの気持ちを一ミリでも考えてくれたこと、ありましたか? とっくに好きだったって、気持ちに気付いてたんじゃないですか? それでも核心に触れずに、誤魔化して暮らすのがラクだったんじゃないですか? だったら、だったらそれを最後まで突き通す努力くらいしてくださいよ! なんでアタシだけ、ずっと我慢したのに、アタシだけ、こんな酷い状況にも置かれなきゃいけないんですか! 今、何考えてるんですか? どんな気持ちで合鍵なんか渡して、どんな気持ちでこんな修羅場迎えて、キョトンとアホみたいな顔していられるんですか? クールでいるつもりですか? 間抜けにしか見えないですよ。何がしたいか、何考えてるか、一個も! 一個もわかんないです! どうなってんですか、本当に! あなたのことが、一個も! わからない!」

アタシには、宮部さんの女は務まらない。薄々は感じていたことを、この瞬間、ようやく実感できた。それだけで良かったのだ。良かったはずなのに、宮部さんはたった一言でアタシの二カ月を、どうでもいいものにした。

「3P、したかっただけだから。しようよ、3P」

耳の奥で、金属が破裂するような音がした。

そこから大きな耳鳴りが始まって、もう、何も聞こえなかった。

階段を駆け下りた。あのハイブランドのパンプスじゃ、絶対に追いつけない速さで。

外に出ると、日はとっくに暮れていた。雨の匂いを含んだ夜風が、私に強く吹きつけた。風の吹く方角に、足を進めた。もう、全部吹き飛ばしてほしかった。

望んだとおりに、すぐに雨が降り始めた。一滴、二滴と大きな粒を垂らしたあと、映画みたいな土砂降りにすぐ変わった。その雨に打たれながら、誰か、迎えに来てくれやしないかと、願おうとした。誰の顔も浮かばず、元からアタシは一人だったのだと、改めて気付かされた。

そこから、何分走っただろうか。雨宿りしようとしたところで、祭囃子の音が聞こえた。夏の終わりに開かれた、町内会のお祭りだったのだろうか。この雨ではきっと、盆踊りも花火も中止だろう。慌てて店を閉じていく、屋台のイメージが浮かんだ。夏は、大きな雨雲と共に流れていった。

「早苗さんの元カレが、どんな人か知らないですけど」

マッチングアプリの男がそう切り出して、またしても現実に引き戻される。

アイスレモネードを飲み干したからか、少し体が冷えていた。

やっぱり、アタシもホットドリンクにすればよかった。テラス席に座ったのも間違いだった。空は、端の方が淡いピンク色に染まってきていて、さっき点いたばかりの外灯が、頼りなく揺れて見えた。

「早苗さんはきっと、もっと素敵な人に会えますよ」

「それって、例えばどんな人?」

アタシは、どんな答えを期待しているのか。あれだけ酷い別れ方をしても、頭に浮かぶのは、中央街のナイトクラブで笑う宮部さんの顔だった。細く頼りない青年は、申し訳なさそうに言った。

「僕なんかじゃ、ダメですか」

男はアタシにキスをした。秋のように、乾いた唇だった。

何の驚きも、感動も、興奮もない、ただの接触。

頭には、あの夏の雨の音だけが聞こえていた。