小説『夜行秘密』_試し読みページ見出し

04 フラれてみたんだよ

「おれ、宮部あきらにMV作ってもらえるかも」

いろくんが嬉しそうに報告してきたのは、七月のわりに心地良い風が入り込む、ある夜のことでした。ギターケースを抱えたまま玄関口でそう言った彼の瞳は、少年のように輝いていました。

その笑顔に嫌な予感がしたのは、当時の私の性格が、酷くねじ曲がっていたからだと思います。彼はチャンスを摑んだのだし、私はそれを心から応援する彼女であるべきでした。しかし、やはりあの夜から明確に、音色くんは別の人間に変わり始めたのでした。全ての行動が音色くんらしくなくて、悪魔か何かに、取り憑かれてしまったように見えました。

人は変わりゆくものだと、わかっています。私だって十代の頃は、地元で素敵な男性と早々に結婚し、子供を授かって豊かに暮らす人生を送ると思っていました。それがまさか二十四歳にもなって、アルバイトをしながら東京で劇団員をやり、バンドマンと同棲しているとは思いもしなかったです。人の生活や価値観は、年齢と共に変わっていくもの。自分でもそうわかっているはずなのです。

それでも当時の私は、音色くんとならどんな苦難が来ても揺るがず、途切れず、ずっと恋人としての関係を続けていけると楽観視していました。いくつもの恋人たちが別れていく中で、自分たちだけは大丈夫と、どこかでタカを括って暮らしていたのです。

今、私は彼と一緒にはいません。

街を歩くたびに目に入るのは彼の好きなものばかりで、それがそのまま、私の好きなものになっている現状を、気持ち悪く感じます。こんなにも彼に染められていたのかと思うと、彼と出逢うまでの私は、どこでどうやって生きてきたのか、わからなくなるからです。

そこまで強い未練を覚えていても、彼ともう一度やり直したいと思えないのは、私が付き合いたいのは今の音色くんではなく、あくまでも出逢った当初の音色くんだとわかっているからです。私はそうやって、巻き戻せない時を羨みながら、後悔を積み重ねているのです。

音色くんと初めて出逢ったのは、私のアルバイト先のスーパーマーケットでした。彼はその日、ギターケースを背負っていて、片方の手にはエフェクターケースを、もう片方の手にはメモ帳の切れはしを握りしめていました。

ただでさえ狭い調味料コーナーで品出しをしている私の後ろを、たくさんの荷物を抱えたバンドマンが何度も何度も通るのです。正直、煩わしいと思ったのが、彼に抱いた最初の印象でした。

一体何を探しているのかと横目で覗き見ると、メモにはざっと見ても十近くの食材がリスト化されていました。店の入り口に大きく展開されていた白菜にすら気付けていないようで、これは先が長そうだなあと、他人の買い物なのに途方に暮れたのを覚えています。

こちらに余裕があるならば、自分から声を掛けて彼を助けることもできました。しかし、出勤するたびにトロいと店長から𠮟られていた私です。調味料を棚に並べるのに必死で、そこまでの気は回りませんでした。

そのまま放置して五分ほど作業を続けたところで、彼はいよいよ困り果てたのか、私に話しかけてきました。お客さんに話しかけられやすいのもまた、お前がトロいせいなのだと怒られたばかりのことでした。

「すみません、岩海苔って、どこにありますか?」

彼の声は思ったよりも低く、太くて、思わず喉ぼとけを見つめてしまったほどでした。どんな大劇場でも響きそうな、輪郭のはっきりした低音だと思いました。真っ黒な髪は襟足まで伸びていて、くるんくるんといろんな方向にはねていました。前髪でほとんど隠れている目元は、ちらと覗いてみると、風鈴が鳴りそうなくらい涼しげな印象がありました。身長は私と同じくらいで、おそらく私よりも細いスキニーデニムを穿いていました。キョロキョロと落ち着かなそうに店の中を彷徨う様子は、迷子になった犬のようでした。

私は彼の持つ買い物リストを横目で確認しながら、岩海苔の置いてあるところまで案内しました。本来ならそこで、元の持ち場へ戻るべきだったのでしょう。しかし、あまりにも音色くんの迷子が終わらなそうだったので、私は彼に助け舟を出そうと思ったのです。その行動に下心がなかったと言えば、噓になります。つまり、この時点ですでに、私は音色くんに惹かれていたのかもしれません。

「そのリスト、全部、買われるんですか?」

少し図々しい聞き方だったかもしれません。彼は少し驚いた顔をしてから、「ああ、そうなんです。今日、宅飲みをやる予定で」と、頭をもしゃもしゃかきながら言いました。

彼が普段から自炊をしていないか、もしくはこのスーパーをほとんど使ったことがないことは、リストの内容を見てすぐにわかりました。岩海苔ならまだしも、白菜や鶏肉など、ほとんどのものがお客様の目につきやすいところに配置されていたはずだからです。通い慣れていないスーパーだと、どこに何が置いてあるのかわからない。音色くんの歩き方は、明らかにそういう人の歩き方でした。

「よければ、一緒に回りましょうか?」

そう声をかけると、彼は明らかに慌てふためいて、いやいや、滅相もないと言いました。確かに、足腰も丈夫な青年に対して、スーパーの店員がつきっきりになって十以上の商品を一緒に集めていくのも、どうにも違和感があると気付きました。「じゃあ、せめて、場所だけ」と言って、一つ一つ説明を始めるのですが、これはこれで、通い慣れていない人に十以上の商品位置を教えるのも難しく、後半は教える方も聞く方も、投げやりになっていくのが手にとるようにわかるのでした。「ありがとうございます」と彼は頭を下げて、すぐに生鮮食品のコーナーに消えて行きました。私も自分の持ち場に戻り、また作業を再開することにしました。

しかし、案の定、と言いますか。あんな雑な説明で全ての商品位置を把握できるわけがないのです。彼は、まだ五つも商品がカゴに入っていない状態で、私の後ろを再び通り過ぎました。その時の彼の、気まずそうに笑った顔。人様に迷惑をかけてはいけないと、小さな頃から教わってきたことがわかるような、繊細さに満ちた表情が、私の心をとろとろと溶かし始めたのです。

「次は、豆腐です」「あっ、豆腐は、こちらではなくて、生鮮食品コーナーの横に」

まるでスタンプラリーのようでした。彼は、商品を一つ手にしたかと思えば、また私のところに戻ってきて、また一つ、また一つと、旅立っては買い物リストを消化していくのでした。

彼も私も、最初はただただバツが悪く、冬場の毛布に身を包むように、恥ずかしい思いにくるまっていました。しかし、いつの間にかそれもはだけて、開き直って夏が来たかのように、各商品の場所をたびたび私に聞きに来ては、手に取っていくのでした。

お店のどなたにも言えませんでしたが、私はあのとき、調味料の品出しをとっくに終えていました。ただ、ボールを咥えた犬のように嬉しそうに戻ってくる彼を待つことがこの上なく楽しくて、仕事なんかすっかりどうでもよくなっていたのです。

最後に半ダースの発泡酒をカゴに入れて戻ってきた音色くんは、どこか清々しい様子ですらありました。たかが自宅での飲み会のための買い出しが、一大アドベンチャーのようになっていた彼を見て、思わず私は吹き出してしまいました。

「え、笑うことないじゃないですか」

「いやいや、すみません。なんだか、おかしくて」

そう言うと、彼もまた私と同じように、口元を袖で隠しながら笑いました。そして、何か思い立ったようにカゴを地面に置くと、背負っていたギターのソフトケースから、一枚のCDを取り出したのです。

「あの、音楽とか、好きですか?」

「あ、はい。詳しくはないですけど、聴きます」

「あ、どんなの聴きますか? 邦ロックも、聴きます?」

「好きですよ、ライブも、たまに行ってます」

「あ、じゃあ、あの、これ。おれのバンドのやつなんです。全く御礼になっていないんですけど、聴いてみて、もしも良かったら、ライブ見に来てもらえませんか? そしたら、ゲストで入れるので。ここに、事前に連絡もらえたら」

そう言って彼は、CDケースに書かれたアドレスを指さしました。

「本当に、聴いてみて、気に入ったらでいいので」

「はい、ありがとうございます。絶対に、今夜聴きます」

その夜ほど、急いで自宅に帰った日はありませんでした。私はまだ一度も聴いていない彼のバンドのCDを抱えて、ステージに立つ彼の姿を想像していました。寒い冬の夜でした。信号機は、赤でも緑でもキラキラと輝いていて、その光にわずかに照らされたアスファルトも、踊っているように見えました。

自宅に帰って、ようやくCDケースからディスクを取り出すと、そこで初めて、自分の家にCDを聴くためのツールが何もないことに気付きました。私は慌てて近くに住んでいる友人に連絡をして、CDプレイヤーを貸してもらえないかと尋ねました。快諾してくれた友人は家から十分ほどのところに住んでいました。私はお礼を言いつつ、すぐにまた靴を履いて、その家まで走って向かいました。あの時の私は、寝静まった街を吹き抜ける、強烈な風になっていました。疲れも知らず、勢いは衰えず、友人の家まで走り抜けました。友人は呆気にとられていましたが、ただプレイヤーを探していた私を、快く招き入れてくれました。

音色くんがボーカルを務める「ブルーガール」は、四人組のバンドでした。ところどころでジャズやファンクの要素が垣間見えるサウンドは、流行りといえば流行りのようにも思えましたが、イントロやメロ、サビごとに大胆に転調していき、同じサビが来ない構成になっている曲が多いのは、とても新鮮に感じられました。バンドの公式サイトを開いてみると、男性四人が気怠そうに映っていて、その真ん中に音色くんがいました。スーパーで話した彼とはまた違った雰囲気があって、私はスーパーで買い物をしている音色くんの方が好きだなと思いました。

翌日、ブルーガールのことをさらに調べていると、バンドメンバーのうちの何人かは個人のSNSアカウントを運用していることがわかりました。私は早速音色くんをフォローして、彼に気付いてもらえるように、プロフィールに自分の所属する劇団の名前と、その隣に、バイト先のスーパーの名前を書きました。

音色くんはその日のうちにフォローを返してくれて、私はダイレクトメッセージで、スーパーの店員である旨と、CDを聴いたこと、ライブに行きたいことを告げました。彼はすぐに返事をくれて、ゲストでチケットを取っておいてくれることを約束してくれました。

「予約名、何にしますか?」

「岩崎凜で、お願いします」

「普段、なんて呼ばれていますか?」

「凜、が多い気がします」

「じゃあ、凜ちゃんって呼んでもいいですか?」

「嬉しいです。ありがとうございます」

こうして連絡をとった日から、お互いのSNSの投稿にたまに反応をしながら、ライブの日を迎えました。スーパーで出逢ってから二週間後のことでした。

ライブハウスは東代田駅からすぐ近くにありました。東代田は改札を抜けるとすぐ目の前に小さな国道があって、その道沿いにいくつかの飲食店があるだけで、あとは閑静な住宅街が広がっています。

ブルーガールの出番は二十時ごろと言われていたので、私はその時間に間に合うように、国道沿いにひっそりと佇んでいるライブハウスに潜りました。受付で自分の名前と、ブルーガールを見に来た旨を告げると、ドリンク代だけを支払って、中に入りました。

フロアには、お客さんの姿がほとんど見えませんでした。少し早くに着いたから少ないのかと思えば、前のバンドの演奏が終わるとさらに人が減って、機材の転換の間に、いよいよお客さんは私を含めて五名ほどになっていました。

平日の夜です。来場者が少ないのは予想していましたが、ブルーガールの時間が迫った頃には、PA卓にいるスタッフと、壁際に寄りかかっているお客さん三人と、中央にいる私しか、人がいませんでした。さらにしばらくすると、壁際に寄りかかっていたお客さんは、今日出演していた一組目のバンドのメンバーであることがわかり、実質、お客さんは私しかいないことがわかりました。

その状況に気付いた途端、私は吐き気を覚えました。

二年前でしょうか。劇団員としてある舞台に立った時、お客さんが一人しか入らなかったことがありました。脚本を務めた座長が連れてきたご友人一人だけが客席に座っていて、あとはスタッフすら、誰もいなかったのです。誰も客席にいなければ、いっそ開き直って開放的な演技ができたことでしょう。でも、三十席はあったはずの舞台で、たった一人の、顔もよく見えない人のために演技するほどの力が、当時の私にはありませんでした。途中でなんだか恥ずかしくなって、セリフが無茶苦茶に飛んで、それがまた恥ずかしくて、公演中に私は、グズグズと泣いたのでした。泣くと、今度は涙で前が見えなくなり、いよいよどこに向かって芝居をすればいいのかわからなくなり、何もできなくなるのが怖くて、袖に引っ込んで、その場から逃げ出したのでした。

当時のことを思い出すまいと気を逸らそうとすればするほど、胃液がこみ上げてきました。全身からじわじわと汗が吹き出して、体が冷えていく感覚だけが残ります。ギターのチューニングの音が、頼りなくもこちらまで届いてきていました。いよいよライブが始まる。そう思うとまた、吐き気は強くなるばかりでした。

そこからは、あまりよく覚えていません。気付けば私は、フロアの防音扉を抜けて、ライブハウスの外に出ていました。小さな国道には、ひっきりなしに車が走っていて、空気が何度も切り裂かれては、私にまとわりついてきました。車のヘッドライトの光を見つめながら、私は立ち尽くしていました。もう、ライブが始まるのに、音色くんの声を聞くことはできそうにありませんでした。彼は、私の姿を探すのでしょうか。客席に照明が向けられないことを、願うほかありませんでした。もう、音色くんに合わせる顔がなくなってしまったことを、私は恥ずかしく、情けなく思いながら、泣いたのでした。

その夜、私は彼に謝罪の連絡を入れました。会場まで行ったけれど、途中、急用が入って、帰らなければいけなくなった。楽しみにしていたのに一曲も聴けなかったと、メッセージを送りました。

返事は、日付が変わっても返ってこなくて、私はもう二度と、彼に会えないことを覚悟しました。

ところが、それからまた一週間ほどたった日のことでした。二日ほど雨が続いた翌日で、洗濯物をめいっぱい干していたところで、彼からまた、ダイレクトメッセージが届いたのです。

「これからスーパーに買い出しに行くのですが、商品を見つけられる自信がないです」

私はそれを読んで、思わず笑ってしまいました。この人は、これまでどうやって生きてこられたのだろうと、心配にもなりました。その日の私は、バイトのシフトに入っていない日だったのですが、彼の助けになれるならと、店内の案内役を買って出ることにしました。神様がくれたチャンスだと思って、逃したくなかったのです。

「三十分後でよければ、店の前で待っています」

そのメッセージに、今度はすぐに「待っています」と返事をくれました。こうして私たちは、またしてもスーパーで再会することになったのです。つい先日まで寒かったのに、突然春の陽気が訪れた、三月中旬のことでした。

「こんにちは」

「こんばんは」

「ああ、そうか、もう、夕方か」

たしか、そんなやりとりをしました。この日の彼はギターを背負っておらず、前回よりもさらに細身に見えました。私は他人の買い物なのに、自分が大きめのトートバッグを持ってきたことを、少し恥ずかしく思いました。

店に入ると、今日は何を買うつもりなのか、音色くんに尋ねました。この前彼が持っていた手書きの買い物リストは、子供が買い物を頼まれたかのようで、とても可愛かったのです。

でもこの日、音色くんは、買い物リストを持ってきていませんでした。

「あの日は、友達が家に来てて、買い出しを頼まれたからメモがあっただけで。それと、今日は凜ちゃんに、メニューを決めてもらえないかなって、思って」

最初は、言っている意味がよくわからなかったのですが、よくよく聞けば、彼は自炊をろくにしていないので、何を作ればいいかもわからず、ただ健康的なものが食べたかったから、私に食材を選んでもらいたかったとのことでした。

「食材を買うのはいいんですけど、それで料理って、できますか?」

「それが、実は、カラキシで」

「んん、カラキシって、どのくらいですか? 焼きそばとかは?」

「作ったこと、ないです」

「あ、本当に? じゃあ、カレーは?」

「それも、ないです」

わあ、そうか、なるほど、と相槌を入れながら、私はどんどん、音色くんの生活が気になってきました。この人はきっと、音楽以外は本当に何もできない人間なのだと思いました。

私は、たった一つのことに熱中できる人を羨ましく思っていました。舞台役者として活躍して、いつかは俳優業に就きたいと思っていても、生活の比重を崩すことは、どうにもできないのです。寝食を忘れて脚本作りに没頭したり、稽古に集中するあまり友人との約束をすっぽかしたりすることは、私の場合、天地がひっくり返ろうとも起きないのです。自分には、狂気が足りないのだと思います。もっと自分の中に、渇望するエネルギーを持ちたい。そう思っていても、SNSに自撮りを上げてコメントをもらったり、セックスしたりすれば、やんわりと満たされる、その程度の浅い欲求しか持ち合わせていないのです。

「よかったら、ご飯、私、作りましょうか?」

気付けばそのように口走っていました。それは、彼という生態に惹かれたがゆえの、百パーセント純粋なる、下心から来るものでした。音色くんがどんな暮らしをしているのか、どんな生き方をしているのか、知るチャンスだと思ったのです。彼は一瞬、虚を突かれた顔をしてから、「いいんですか」と大きく驚いてみせました。

「私も簡単なものしか作れないですけど、たぶん、音色くんよりは、ましだと思います」

そう言うと、彼は申し訳なさそうに笑いながら「ぜひ」と言って、私を部屋に招き入れてくれました。彼の部屋は非常に散らかっていて、コンロは一口しかありませんでした。九畳の1Kは壁が薄くて、隣の住人の生活音がいつも聞こえていました。年中敷きっぱなしだというコタツ布団と、壁沿いに無造作に積まれたCDと文庫本の山が、部屋の大きな割合をしめていました。

まな板を置くスペースも十分にないキッチンで、私はなんとかハヤシライスを作って、彼に食べさせました。ハヤシライスが体にいいとは到底思えませんでしたが、音色くんがリクエストした唯一の食べ物がそれだったので、それを作ることにしたのです。音色くんは、ろくに味わう素振りも見せずに、ばくばくと平らげてくれました。

私もコタツに入ると、発泡酒で乾杯をしてから、彼はこの前のライブの話をしてくれました。あの日のライブは音色くんの中でかなり納得のいく出来だったそうです。ライブハウスの店長にも褒められたと言っていました。本当に見てもらいたかったから、今度また、誘いますと、音色くんは言いました。私も自分の所属する劇団の話をして、今は脚本も書いているのだと伝えると、彼は観劇も好きだと言って、いつか観に行くと約束してくれました。正直、私は自分の劇よりも、手料理の方がまだ音色くんを楽しませてあげられる気がしたので、なんとも申し訳ない気持ちになりました。

その後も、音色くんの家のコタツの中でテレビを観ながら、まったりといろんな話をしました。大晦日のような時間が続いて、なんだかずっと前から一緒に暮らしているみたいだと、音色くんは言いました。

私は彼の低く響く声がやはり好きで、その声がもっともっと聞きたくて、彼の喉仏にそっと手で触れました。彼は驚くかと思ったのですが、そうされることがずっと前からわかっていたかのように、私の右手を優しく両手で包んで、ゆっくりと目を瞑りました。

花をひとつかみするような、優しい仕草でした。

そのまましばらく動かずにいましたが、時間がたつに連れてさらにお互いを求めるようになり、私たちは狭いコタツの中で、互いの脚だけを遠慮がちに絡ませていきました。近くで感じられる音色くんの吐息はとても熱くて、それをもっと感じたいと思っているうちに、私と音色くんは熱で溶けるように、繫がっていきました。外は、夜になるとまた冷え込んできたようで、いつ雪が降ってもおかしくないような静けさが窓越しに伝わってきました。音色くんと私がいるこの部屋だけが、確かな熱とともに宙に浮かんでいるようでした。

ここまでの展開が、彼の予想どおりのものだったのかはわかりません。ただ、その日から私は、彼の家に料理を作りに行くことが増えて、その一カ月後にはもう、彼の家で生活できるだけの荷物を彼の部屋に運び入れていたのでした。

私は、その自然な流れがとても気にいっていました。不自然なところは何もなく、売れないバンドマンと売れない劇団員が東京の片隅で暮らし始めたことは、なんだか物語が始まる予感に満ちていたのです。

実際、それからの日々は、絵に描いたように平和で、無責任なものでした。それぞれがアルバイトをしながら、一日中抱き合っていたり、わざわざレンタカーを三時間走らせて餃子を食べに行ったり、私の書いた台本を読んでもらったり、彼の作った曲を一番に聴かせてもらったりして、若さを貪るようにして生きていたのです。彼は、私の書く脚本を好きだと言ってくれました。その内容の多くは、誰かが誰かを殺すようなものばかりで、凜ちゃんみたいな人が書く内容とは思えないと驚かれはしましたが、そのギャップがまた良いのだと、何度も真剣に台本を読んでくれました。まだ自分の出演する劇を見てもらったことはなかったのですが、いつか呼んでよと、彼は台本を読むたびに言ってくれたのです。それだけで私は、劇団員を続けてきて良かったとすら思えたのでした。

ブルーガールの活動に変化が見られたのは、新年度が始まり、世間が華やかになってきた頃でした。これまで、自作のCDのみで聴くことができた彼らの音楽が、音楽配信サービスで初めて公開されることになったのです。

音色くんは、自分の作った音楽が配信サービスによって刹那的に消費されていくことに、懐疑的ではありました。実際、サブスクリプションサービスにブルーガールの音楽が解放された日、音色くんはずっとソワソワしていて、私は一日中、彼の頭を撫でて過ごすことになりました。彼の才能を見つけてもらえるのかどうか、私たちは楽曲の旅路を、ただただ見守ることしかできませんでした。

そこから一カ月は、なんの音沙汰もなく、私たちはいつもどおりの暮らしを続けていました。バイトがある日は必死に稼いで、それ以外はデートをしたり、歌詞や脚本作りと向き合っていました。正直、私は配信サービスに大きな期待をしていなかったので、こんなものだろうと思っていました。しかし、新緑が眩しい五月の朝に、ブルーガールのドラムのげんくんから、音色くんに連絡があったのでした。

「え、一位なの?」

詳しいことはわかりませんでした。ただ、玄也くん曰く、ブルーガールが配信した楽曲のうちの一つが、ある動画投稿型SNSで大量にカバーされて、突然ストリーミングサービスの急上昇ランキングで一位を獲得したらしいのです。

「え、すごい。何、どこから」

ヒットは自覚しないところから起きるのだと、彼の表情を見ていてわかりました。ネットを開いてランキングを見てみると、確かにそこには、ブルーガールが一位として表示されているのです。動画投稿型SNSを開いてみても、音色くんの作った楽曲が、本当にいろんな人にカバーされていました。

音色くんは、最初は戸惑ってばかりいたものの、事態を理解すると徐々に高揚してきて、やったやったと部屋の中ではしゃぎ出しました。そんなに喜んでいる音色くんを、私は見たことがありませんでした。その姿を見て、私も一緒に喜んであげたかったのに、なぜか私は戸惑い、そして、少し寂しい気持ちになったのでした。

そして、気色の悪いことに、この日を境に、私たちは一切、体の関係を持たなくなったのです。音色くんが変わり出したのは、まさにこの瞬間だと、いま振り返ればわかるような気がします。彼の人生に、私がいないことが、徐々に増え出すのです。

ヒットチャート一位を取った『自転車』という曲は、サビこそ四つ打ちのノリやすさと、ひたすら韻を踏んだ歌詞が心地良い楽曲ではありましたが、そのフレーズは曲中で一度しか登場しない構成でした。それなのに、SNSやテレビではその部分だけが紹介されていく。ブルーガールの魅力は自由自在に変化する構成にあると思っていた私は、『自転車』の売れ方があまり気に入っていませんでした。

「あの曲さあ、やだよね。あんな風に消耗されていくの」

静かすぎる夜でした。新たな曲を作っている音色くんに向けて、私は声をかけました。音色くんは顔だけこちらに向けて、言いました。

「え、何が?」

「あ、だから、『自転車』。本当はイントロからアウトロまで丸々通して、一曲じゃんね。それが、十五秒とかさ、雑に切り取って、いい曲だ〜って、エモい動画つけたり、ダンスとかしちゃって、なんか恥ずかしいよね」

音色くんも、少し前までは私と同じ考えでいたと記憶しています。実際にそういう話をしたことがあるのです。彼の持つ芸術への信念が、私は好きでした。だからそのような話をしたのです。彼は、麦茶を一息で半分ほど飲んでから言いました。

「んー、でも、どんな形であれ、まずは自分たちの存在を世の中に知ってもらわないとダメだよね。知ってもらえたら、次でチャンスができるじゃん。音楽の質とか、ポリシーとか、そういうの語るの、まずは売れてからかなって思うなあ」

出逢ったときとは、まるで考えが変わっていました。「SNSミュージック」という不思議なジャンルが生まれて、ブルーガールはメジャーデビューもしていないのに、その中に組み込まれていました。音色くんは新たなジャンルの先駆者だと言われて、十秒だか十五秒だか、その一瞬だけ楽曲が切り取られることを、本人も肯定し始めていました。

そして、日本を代表するヒットメーカーと呼ばれる宮部あきらとの接触があったのが、「自転車」のヒットからさらに二カ月後のことでした。殺人的な暑さが続く七月に、音色くん率いるブルーガールは、宮部あきらの事務所に呼び出されました。

映像作家や脚本家として知られる宮部あきらのことは、もちろんよく知っていました。音色くんは宮部作品が大好きで、いくつかの楽曲は、宮部あきらが関わった映画に影響されて作ったものだと、よく聞かされていました。

私は宮部作品にそこまで惹かれなかった人間ですし、なかでも音色くんが挙げるような、大衆的と言いますか、商業的なヒットを記録した作品にはほとんど興味を持てませんでした。しかし、私の気持ちなんてブルーガールには関係のないことです。ヒットチャートにブルーガールの名前が挙がるようになった時、音色くんは宮部あきらの事務所に、新曲のミュージックビデオの制作依頼を投げていたのでした。音色くんにそんな行動力があるとは思ってもいなかったので、私もメンバーも大層驚きましたし、まさかそれに返事が来て、実際に音色くんと宮部あきらが対面することになるなんて、さらに予想できなかった事態でした。

ブルーガールのメンバー四人は、『自転車』の次の曲でバンドとしてのブレイクを果たすために、細々と溜めていた貯金をここぞとばかりに切り崩し、必死にスタジオに籠もっていました。いくつかできた曲の中から、これは! と思ったものを、音色くんは宮部あきらに送っていたそうです。その曲の感想と、今後のことについて話したいと、宮部あきらの事務所から連絡があったとのことでした。

「もしもMV決まったらさあ、これもう、大変なことになっちゃうと思うんだよ。テレビとか、呼ばれちゃうかもしれない。そしたらさ、放送される日は、みんなで一緒に見たりしようよ。そうだな、スクリーンとかあるバーを借りて、いろんなひとを呼んでもいいかも。これまで対バンした人たちと、ちょっとミニライブとかもやったりしちゃってさ。良さそうじゃない?」

私はお客が誰もいなかったあのライブハウスと、そこにいた対バン相手の皆さんの顔を思い浮かべていました。あの真っ暗なフロアで、わずかに光っていた、青い照明。夜の海のような景色を眺めながら、ブルーガールの鳴らす音を確かに楽しみにしていた日のことを、思い出していました。

宮部あきらの事務所に音色くんたちが出かけたのは、熱中症の患者数が過去最多になったとニュースが告げた、その翌日のことでした。日付が変わって、空の青さが完全に失われても音色くんは帰って来ず、私はあまりに遅い帰りに心配になり、駅まで迎えに行こうかと準備を始めていました。

ガチャガチャと乱暴に扉が開く音がすると、音色くんは全身を引きずるようにして、部屋に入ってきました。私は最初、彼が誰かに殴られたのかと思い、慌ててその体を支えようとしました。しかし、近づいてみると酷いアルコールの匂いがして、ああ、これは、ただ酔っ払っているだけなのだと安心しました。

かなり、酷い酔い方でした。普段あまり深酔いしない人なので、相当な量を飲んだに違いありませんでした。その状態を見て、これは、良い話にはならなかったのだろうと察しました。その夜は、もう会話も成り立たず、私は音色くんに水をガブガブと飲ませてから、なんとか彼をベッドに運んで、寝かせました。窓の外では虫が盛んに鳴いていて、私にはそれが、何かの警告のように聞こえていました。でも、何に対しての警告だったのかは、その翌日になるまで気付きませんでした。

音色くんがモゾモゾとベッドから出ていく気配がして、目が覚めました。まだ朝八時前で、夜行性の私たちからすると、酷く早い時間でした。

土から出てきたばかりのように茶色い顔をした音色くんは、ヨタヨタとお風呂場に消えていきました。シャワーの出る音がしたかと思うと、部屋中が水分の針に刺されていくように、湿度が高まる感覚がありました。

五分もせずに「タオル取って」と声が聞こえて、私は慌ててバスタオルを一枚、物干しハンガーから外して、持って行きました。

お風呂場の前に立つと、半透明の扉越しに、音色くんの右腕が伸びていました。タオルを渡しがてら、扉の隙間をわずかに覗くと、音色くんの裸がほんの少しだけ、見えました。私は久しぶりに、音色くんの裸を見た気がしました。その体に二カ月触れていない事実が頭をよぎって、お腹の下あたりで、トクンと音がした気がしました。

「昨日、宮部さん、会ったんだよね?」

お風呂場の扉越しに、音色くんに尋ねました。音色くんはタオルで激しく頭を拭いていて、私の声が聞き取れないようでした。「あー?」と返事が聞こえて、私は改めて、宮部さんに会ったのかと尋ねました。音色くんは、明らかにとげを持った声で言いました。

「ボッロボロに言われた」

そこで、タオルを動かす彼の手は止まりました。

「君らの音楽は本当につまらない。たった一曲で調子に乗って、もう売れたつもりになっている。オーディエンスを舐めている。ただ売れればいいと思ってる。音楽を好きな人たちに謝ってほしい。こんな曲なら絶対にミュージックビデオなんて作らないし、俺のファンだとか、そういうことを公言するのもやめてほしい。迷惑だ。つってた」

音色くんの表情を、細かく確認することはできませんでした。ただ、間違いなく彼は、そのプライドを折られ、傷つき、落ちこんでいるようでした。

そこで励ますのが、私に与えられた、彼女としての役割だったのかもしれません。でもその時、私は彼の話を聞いて、とても安心していたのです。

正直、ここ二カ月の間、音色くんは浮かれっぱなしでした。東代田のライブハウスではお客さんが一人もいなかったのに、急にメディアからインタビューを受けて、まるで成功者のように音楽や人生についてあれこれ語っていたのです。音色くんは、悪魔か何かに取り憑かれたようにしか思えませんでした。そんな彼に、きちんと釘を打って、ふわふわと何処かに飛んでいかないように地に足を着けさせてくれたのが、宮部あきらだったのです。そう考えると、宮部あきらのことが、私はほんの少し、好意的に思えるのでした。あの人は、きちんと真実をわかっている人なのではないかと、そのように思えました。

「残念だったね」

音色くんを励ましながら、心の中で私は、平穏な日常がまた戻ってくるのだと喜んでいました。ヒットチャートに名前が載ったことで、ブルーガールに多少のファンはつくかもしれません。それでも『自転車』のブレイクはおそらく来年までは続かない。すぐに落ち着いて、音色くんはまた私のところに戻ってくると思ったのです。

これでまた、彼は私との時間も、いっぱい作ってくれる。また二人だけの暮らしに戻れる。そんな予感に溢れていました。

しかし、シャワーを浴びてパンツを穿いた音色くんは、床を睨みつけながら、私の予感を踏みにじるように言いました。

「凜ちゃん、おれさ、やっぱこのチャンス、逃したくないんだわ」

その言葉を聞いたとき、この人は何を言っているのだろう? と、強く疑問に思いました。音色くんの主張は、少年マンガ誌によく出てくる、頭の悪い主人公のようでした。宮部あきらに散々𠮟られたのなら、彼はとっくに敗北しているわけで、今の彼にはどんなチャンスも残っていないはずなのです。

音色くんは、まだ濡れた髪をもしゃもしゃと搔きながら、言いました。

「今、頑張れば、一生音楽で食っていけるかもしれないのね。周りも、就職とかしてるし、おれは音楽でやっていけるって、ここで証明したいんだよ」

頑張りどころは、もう終わったのではないか。そしてそんな理由で、今が頑張り時だと、本気で思ったのでしょう。

「別れ際にね、マネージャーの人が言ってくれたんだ。もう一度、別の曲でお願いできないかって。これって、チャンスはまだあるって意味だと思ったの。実際、宮部さんに送った曲は、なんていうか、『自転車』よりも、こう、なんていうの」

「大衆的?」

「そう、タイシュウテキにさ、ウケるやつ作ろうとしちゃってたんだよ。やっぱり最前線で活躍してるクリエイターは、違うよな。一発で見破られちゃったんだ。次はもっと、宮部さんが納得するもの作って、それで、宮部さんと一緒にやりたいんだ」

急に、彼の瘦せた体が、ただ貧相なだけに思えてきました。自分自身すら支えられなそうな、安っぽくて、弱い体。

「だから、ごめん」

大した器でもないくせに、夢だけは一丁前に見て、見栄だけで自分の進退を考えていたい、小さな脳味噌。

「もっと音楽に集中したいから、しばらくの間、一人にさせてくれないかな」

チビ。音痴。不潔。

たしかに私は、寝食を忘れて何かに没頭する人間を好きだと思っていました。でも、音色くんにはそれを求めてはいなかったのだと、この時初めて、ハッキリとわかりました。私は彼が成功者にはなれなくても、生活者として日々に足跡を残していけたら、それで十分だったのです。

音色くんは、私を強く抱きしめました。それが、二カ月ぶりの抱擁でした。私は、都合の悪いときに誤魔化すようにハグしてくる男が嫌いだと、前にも言わなかったかと考えていました。それでも体は、久しぶりに彼の肉体に触れたことを喜んでいるようでした。またお腹の下あたりで、トクンと音が鳴った気がしました。

「ごめん」

よく謝る人だな、と思いました。この人はもう、音楽を言い訳にして、私から逃げたいだけなのだと思いました。私みたいにトロくて鈍臭い上に、妙に批評家ぶった思考を持った女とは、一緒にいたくないのだと、「ごめん」の一言で伝わってきました。

「そんなに、嫌? 私のこと」

私は念のため聞きました。もう率直に聞いても壊れるものはないくらい、全てが壊れていた気がしました。

「嫌じゃないよ」

「だったら、静かにしてるから、できるだけ話しかけないようにするから。そばにいちゃダメかな?」

「うん、それは」

二カ月間、一度も抱かれなかったこと。その事実から、すでに答えはわかっていました。

「ごめん」

音楽だけが、彼を勃起させるとでも言うのでしょうか。それほどまでに、彼は、音楽に愛され、音楽を愛した人なのでしょうか。一緒に生活している限り、私には到底、そうは思えませんでした。この人は、音楽をやっている自分が好きなだけで、音楽自体を好きではない。ギターを背負っているときだけ、主人公になった気でいる、普通の男の子なのだと、私は思っていました。そして、私が好きだったのはきっと、普通の男の子でいるときの音色くんだったのです。

私は音色くんから離れると、ベッドの奥にある部屋の窓を開けました。網戸も開けてしまうと遮るものがなく、暑苦しい空が、間抜けそうに広がっていました。

ベッドに乗ってから、少しだけ身を乗り出して、窓の下を覗きました。隣のマンションの駐車場が見えます。車はすべて出払っていて、コンクリの無機質な空間が、ぽかんと口を開けていました。

彼がどんな表情をしていたか。振り向いていないから、わかりません。

私は、ベッドの横に置かれたギタースタンドをギターごと一緒に摑むと、一息で窓の外に投げました。

赤色のテレキャスターは想像していたよりも軽くて、音色くんみたいだと思いました。

晴れた青空に浮かぶ、赤色。

次の瞬間、木と金属が破裂する、大きな音が響きました。耳を塞ごうとする頃には鳴り終わっている、鋭く短い音でした。窓から下を覗くと、ネックとボディが分裂し、他にも様々なパーツが四方八方に散らばっていました。人が飛び降りたみたいだ。そう思うと、急に誰かを殺したような気がして、私は怖くなり、ワーッと叫んで、泣きました。どんな感情だったのか、わかりません。ただ叫んで泣くことしか、できなかったのです。

音色くんは、私を怒鳴ることも、殴ることも、慰めることもせず、パンツだけを穿いた状態で、ただ突っ立って私を見ていました。その冷たい視線は、私が出演した舞台でたった一人の観客だったあの人を思い起こさせました。顔はよく覚えていませんが、あのたった一人の観客も、私の芝居をこんなふうに冷たく哀れんだ目で、見ていたのでした。私は、目の前に立ち尽くす音色くんがあの観客だったのではないかと思い、猛烈な目まいに襲われて、その場で嘔吐しました。

手で抑えようとしましたが、嘔吐物は右手からかんたんに溢れ出て、シーツにダラダラと垂れました。涙と嘔吐物で汚れたベッドは、ただただ気持ち悪くて、私は台所の流しまで、ヨタヨタと逃げました。嘔吐物を受け止めようとした右手は、強い刺激臭を放っていました。

手を洗って、口をゆすぐと、呼吸が落ち着くまで、流しを見つめていました。使い古された流しは、常にぼんやりと曇っていて、私のシルエットだけをうっすらと映していました。きっと、酷い顔をしていただろうから、曇っていて良かったと思いました。

着ていた部屋着にも、嘔吐物が付いていたので、そのまま流しに脱ぎ置きました。それから、口の中に溜まっていた痰を何度か吐いて、水をコップ一杯分、ゆっくりと飲みました。最後に、クローゼットまで歩いて、一番上にあったワンピースに着替えました。その間も、音色くんは一歩も動かず、一言も発さず、ただ立っているだけでした。

「掃除したら、出ていくから」

私がそう言っても、彼は返事をしませんでした。私は一人でベッドのシーツを剝がして、処理しようとしました。シーツに溜まった嘔吐物が、ゆらゆらと揺れていて、中から化け物でも出てきそうでした。あまりに汚かったので「ごめんね」と謝罪すると、彼も「おれもごめん」と返しました。空気を読んで、神妙な面持ちをしているようでした。もうそんな必要ないのに、と思いました。

シーツと部屋着をざっと水で流してから、洗濯機に放り込むと、私は身支度を始めました。部屋を見回してみると、あまりに自分の私物が少ないことに気付きました。ずっと一緒にいられると思っていた割に、いつでも別れる準備ができていたかのようでした。そのことが悲しくなって、一度、作業の手を止めました。別にそんなに、急いで出ていくことはないよと、音色くんが言いました。

「フッておいて優しくするのは、ある意味モラハラだと思うよ」

私は笑ってそう告げてから、開けっ放しの窓を見ました。朝の割に、月が随分とハッキリ見えました。綺麗な半月でした。もともと丸かったものをはんぶんこしたような、不思議な寂しさが滲んでいました。彼とは何度も、月夜の散歩をしていました。夜行性だった二人は、太陽の光よりも月の光で生きているように思えました。

これからは、どれだけ綺麗な月が見えても、一人でその下を生きていくしかないのです。そのことを思うと、また涙が滲んできそうでした。

好きなまま、別れる恋もある。

心にそう言い聞かせながら、私は荷物の整理を再開したのでした。