人類最初の殺人 JINRUI SAISHO NO SATSUJIN 【試し読み】

人類最初の誘拐 試し読み 本文見出し

皆さま、こんばんは。

エフエムFBSラジオ『ディスカバリー・クライム』の時間です。ナビゲーターは、わたくし、漆原遥子が務めさせていただきます。

この番組では知られざる人類の犯罪史を振り返っていきます。

第四回目の今夜は、「人類最初の誘拐」です。

お話は、国立歴史科学博物館、犯罪史研究グループ長の鵜飼半次郎さんです。

鵜飼さんは、取材先のエジプトからきょう戻られたばかりです。ギザの大ピラミッドのなかでは迷子になり、捜索隊を出されたとのこと。

無事に見つけてもらえてよかったですね。

それでは鵜飼さん、よろしくお願いします。

〈ジングル、八秒〉

「神は死んだ」

とは、ドイツの哲学者ニーチェの有名な言葉ですが、ここに神のいない神殿があります。

この神殿には、そもそも神が存在していないのです。

神殿があるのは、現在ではエジプトの都市メンフィスとして知られ、かつては「イネブ・ヘジ」と呼ばれる場所でした。

かの地では、民は多くの神を信仰し、多くの神殿を造ってきました。

そこでは王が変わるごとに信仰が変わり神も変わりました。現在、メンフィスからは、プタハ、ハトホル、セクメト、アピス、アメン等の神々の神殿が発見されています。

そのなかのひとつに、この神殿はあります。

現地の人々は、この神殿を「神不在の神殿」と呼んでいます。

メンフィスの南西部に位置するその神殿は、大きさはほかの神殿に比べて小規模ではありますが、豪華な装飾が施された、立派な神殿です。

しかし、その神殿には古代エジプトの文字であるヒエログリフで神々を讃える言葉が数多く刻まれているにもかかわらず、神の像がひとつもなく、神の名がまったく記されていないのです。

これはエジプトの神殿としては非常に稀なことです。像が盗まれたわけでも、その名が削りとられたわけでもありません。最初から存在していなかったのです。

どうして、この神殿には神の名が記されなかったのでしょうか?

そこには、古代に起こった、ある誘拐事件が関係していました。

それは「人類最初の誘拐事件」です。

今夜は皆さんを五千年前のエジプトへとお連れいたしましょう。

〈ハープの調べ、二十秒〉

紀元前三〇七一年、ナイル川氾濫期、第三月のこと。

まだそのころにはピラミッドもスフィンクスもありません。ピラミッドが造られるのはそれから千年もくだったころのことです。

『エジプトはナイルの賜物』といわれるように、エジプトではナイル川に沿って都市が点在していました。

当時、王国の都はイネブ・ヘジにありました。「イネブ・ヘジ」とは、古代エジプト語で「白い壁」という意味です。

その名が示すとおり、イネブ・ヘジでは白い壁が街のまわりを囲っていました。

人口は三万人を超え、当時世界最大の都市でした。

三万人とはずいぶん少ないように感じる方もおられましょうが、そのころ世界のほかの地域では、人類はまだほとんど原始人と変わりないような暮らしをしていましたから、三万人が集う街ともなると、それこそ奇跡のような場所だったのです。

平和な時代が続きますと、人々は日々の生活を充足させようとするものです。上下エジプトが統一されると、王都のイネブ・ヘジには大きな港がつくられ、ほかの都市と交流し、さまざまな物資が入ってくるようになりました。

なかには貿易により大きな富を得る者も現れます。ある者は医師になり、またある者は建築士になり、またある者は商人になり——といった具合にさまざまな職業に就くようにもなります。外国からの移住者も多く、街は大変賑わっていました。

しかしながら、いつの時代もすべての人が幸せになるということは不可能なことで、当然イネブ・ヘジにも貧しく不幸な人々はいました。

そんな不幸な人々のなかに、ある子供たちの集団がありました。彼らは五人で街の外の森に暮らしています。年齢も出身もバラバラな子供たちですが、ひとつだけ共通点がありました。それは皆、身寄りがいないということです。戦争や事故で親を亡くした者もいましたし、なかには親から捨てられた者もおりました。当時は保護者のいない子供には居場所がありません。役人に捕まって奴隷になるか、街の外で暮らすしかなかったのです。

彼らは街で物を盗み、食料に換えて飢えをしのいでいました。直接食料を盗むこともありましたが、食料よりも宝石や貴金属のほうがずっと役に立ちました。まだ通貨のない時代です。市場では基本的に物々交換で取引されます。宝石や貴金属は持ち運びやすく、貯めておけるため使い勝手がいいのでした。

街には犯罪を取り締まるファラオ直属の守護隊がありましたが、守護隊にもその子供たちを捕まえることは困難でした。彼らは神出鬼没でたくましく森のなかで生き延びていたのです。

さて、きょうも子供たちはいつものように椰子の木の下で食事をしながら窃盗の計画を立てていました。まだそのころはサハラ砂漠は現在のようにはなっておらず、緑も多くありました。

そのころイネブ・ヘジでは、犯罪の取り締まりを強化し始めていました。人類最初の大規模な警察機構ができ始めていたのです。

現在もそうですが、取り締まりがきつくなればなるほど、かえって犯罪は巧妙になるものです。

この日も子供たちは、熱心に新しい盗みの手口を考えていました。といってもまだ年端も行かない子供たちです。話し合いはいつしかふざけ合いに変わり、最後には大騒ぎになりました。

「お前たち、いい加減にしろ。もっと真剣に考えるんだ!」

年長でリーダーのセトが食後に飲んでいた椰子の実を地面に叩きつけて一喝しました。

セトは十六歳の少年です。“セト”というのはエジプトの砂漠を統治する神の名です。そのほかの子供たちも皆、神の名を名乗っていました。もちろん、ほんとうの名前ではありません。神々に見捨てられたような暮らしをしている彼らは、自分たちを見捨てた神々の名をつけて互いを呼び合っていたのです。

彼らは自分たちのことを「ラーの子供たち」と呼んでいました。“ラー”とは太陽を司る最高神のことで、古代エジプトではファラオがラーの息子ということになっていましたが、彼らは不遜にも自分たちこそがラーの子供だと称していたのでした。

セトが一喝したことで皆がしゅんとなって静まり返ります。

「セト、いい話があるんだ」

静寂を破ったのは、ウプウアウトです。皆からは“ウーピー”と呼ばれている少年です。“ウプウアウト”とは上エジプトの守護神の名で、「道を切り開く者」の意味があります。ウーピーは背が低く丸っこい体形をした十五歳の少年です。彼はスリが得意でした。

「なんだ、ウーピー。話してみろ」セトがじろりとウーピーを睨みます。

「この計画はすごく新しいんだ。いままで誰もやったことがないものなんだ。まさしく“テェム”なんだよ」

“テェム”とは古代エジプト語で「完璧」を意味する言葉です。

セトは、うんざりした気分になりました。

これまでもウーピーが“テェム”といった計画はありましたが、そのどれもがろくなものではなかったのです。

ウーピーが続けます。

「街にさ、エムハブって野郎がいるだろ」

「ああ、書記官だな。いやな野郎だ」

当時のエジプトでは文字を扱える人は少なく、記録を残し、過去を知る書記はとても高い地位にありました。その書記をまとめるのが書記官です。エムハブは大きな権力を持ち、広大な土地を所有していました。そのほかにも倉庫や商店、酒場や娼館も経営し、強大な権力をかさに、やりたい放題悪事を働いているとの噂です。彼に逆らう者はこの街にはひとりもおりません。ファラオ以外は、という意味ですが。

「あたし、あの人に突きとばされたことがある」この声はメルトです。メルトは、「陽気な小女神」の名を持つ少女です。このなかでは一番幼く、歳は八歳です。両親は上下エジプト統一戦争のときに亡くなっています。

「あの人、いつも怖い顔して睨みつけるのよ」こちらはネイトです。ネイトは十四歳で、リーダーであるセトの恋人でもあります。彼女はいつもセトの隣を陣どっています。

子供たちは街で裕福な者を見かけると金品をねだることもよくしていました。エムハブも当然その対象になっていましたが、成功した者はひとりもいません。

「どうせあいつの家に忍びこもうってんだろ。それはやめておいたほうがいいぜ。あそこは警備の人間が多すぎる」

そういったのは、トトです。トトは元書記で十五歳の少年です。このころのエジプトでは十歳くらいから働き始めます。書記になれるのはごく一部の裕福な家の子息だけで、彼らはほとんど言葉を話すか話さないかのうちから英才教育を受けます。その教育はかなり過酷で、寝る時間さえないほどです。競争も激しく途中で脱落する者も多くいました。トトもそのひとりです。トトは書記としてかなり優秀でしたが、あまりにも俗世間と離れたことばかり学ぶことに疑問を覚えて逃げ出したのです。

背が高く頬がこけた、ひょろっとした体形のトトはいろいろな書物を勉強してきただけあって物知りでした。

「あそこはとくに選りすぐりの兵士が警備についてるからな」

「家を襲うんじゃないよ」と発案者のウーピー。

「じゃあ、エムハブ自身を襲うのね。あいつはいっつもいっぱい宝石を身につけてるから」

ネイトがいいました。

「それも、違うんだな」ウーピーがにやりと笑います。

「ウーピー、じらさずにさっさといってしまえ。どうせろくでもない計画なんだろ」リーダーのセトが怒鳴りました。

ウーピーが身体をのり出します。まわりの子供たちを見ると、芝居がかった間をとりました。ゆっくりと皆を眺めまわしたあとでいいます。

「あいつを襲うっていうのはある意味合っているんだけどね。盗むのはあいつが身につけている宝石じゃなくて、あいつ自身なんだな」

皆がぽかんとした顔でウーピーを見ます。

「どういう意味だ。そんなことしてどうする?」セトが尋ねます。

エムハブは禿頭の太った男で、年齢は五十代でしょうか。奴隷として外国で売ったとしても、とても買い手がつくとは思えません。エジプトの外ではほとんど価値のない男です。

ウーピーがにやりとしてセトを見ます。

「俺たちにとってあいつは価値がなくても、家族にとっては別さ。あいつの命をあいつの財産と交換するんだよ」

さて、彼らは「人類最初の誘拐」成功させることはできるのでしょうか……
続きは本書にて!

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