空にまんまるな月がのぼりました。皆はすっかり寝入っています。そのなかでルランだけは寝つけずに考えごとをしていました。
はぐれてしまったとはいえ、あのハンハンがこの洞窟に帰ってこないのは妙だ、動物にでも襲われたのだろうか、はたまた群れに戻るのをやめて別の群れに加わったのだろうか、などと考えていたのです。
そんなことを朝方まで考えていると、お腹が空いてきました。マーラーに嫉妬するあまり、マーラーの獲ってきた肉をほとんど食べなかったことがよくなかったのでしょう。そういえば、あの鳥はどんな鳥だったのだろうとルランは思いました。
以前にもルランは鳥の肉を食べたことがあるのですが、夕方に少しだけ食べた肉は、どうも鳥の味ではないような気がしてきました。そもそも一羽の鳥にしては量が多すぎます。それに、なぜマーラーがその肉を捌いて持ち帰ったのかということも気になります。
その瞬間、ルランの頭のなかで何かが光りました。輝くそれは脳内を一瞬稲妻のように駆け抜けただけでしたが、ルランは得もいわれぬ興奮を味わいました。もやもやしていたものが突如として明晰な形を持って現れ、点となっていたものが線で繋がったのです。
——そうだ。マーラーは何も獲れなかったものだから、ハンハンを殺して、その肉を持ち帰ったんだ。
思考は言葉によって紡がれます。お話ししたようにこの時代にはまだ文法がありませんから、このようにはっきりとした文の形でルランの頭のなかに浮かんだわけではありません。しかし、ルランの頭のなかのイメージを統合すると内容はおおよそこのようなものでした。
これは人類最初の論理的な思考でしたが、もちろんルランがそんなことを知る由もありません。
ともかく、この天啓のような閃きにより、ルランの頭のなかで、ハンハンの失踪とあの妙な味の肉が結びついたのです。
モラルという概念のない当時であってさえ、カニバリズム——いわゆる人肉食は嫌忌されることでした。ましてや仲間を殺すなど許されることではありません。これは皆に周知せしめねばならぬことです。しかし、そこには問題がありました。
かの谷崎潤一郎氏は『文章讀本』のなかで、こう述べておられます。
〈人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。たとえば悲しみを訴えるのには、悲しい顔つきをしても伝えられる。物が食いたい時は手真似で食う様子をしてみせても分かる。その外、泣くとか、呻るとか、叫ぶとか、睨むとか、嘆息するとか、殴るとかいう手段もありまして、急な、激しい感情を一息に伝えるのには、そういう原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語によるより外はありません。言語がないとどんなに不自由かということは、日本語の通じない外国へ旅行してみると分かります〉
そうなのであります。
ルランは伝えるべき事柄を抱えてしまったのですが、その「細かい思想」を明瞭に伝える術を持っていなかったのです。
そのため、朝、さっそく群れのリーダーであるガルーダに自分の考えを伝えようと試みたルランでしたが、やはりそれはうまくいきませんでした。
ルランは、ただ、
「ハンハン、ポー、マーラー、ポー、ハンハン、ポー……」
と繰り返すばかりでガルーダにはまったく通じません。
「ポー」は「殺す・獲る」を意味する言葉です。ルランはマーラーがハンハンを殺したと訴えていたのですが、まったく伝わらなかったのです。
ルランの発する言葉のなかには、図らずものちに発生する英語や中国語のように主語、動詞、目的語の語順に相当するものがありました。必要は発明の母と申します。言葉とはこのように発達していったのでありましょうか。さりとて、聞くほうがその法則を知らなければ意味が伝わるはずもありません。
ガルーダは、ルランのいわんとすることを理解しなかったばかりか、その表情には、もはや「ハンハン」という言葉が意味するものを忘れている感さえありました。
当時の人間からすると、いなくなった者の存在を忘れることは無理からぬことでした。ハンハンはこの群れで生まれ育ったのですから、いずれはこの群れを出ていく運命です。それが早く起こっただけ。皆はそのように考えていたのです。いなくなった人間のことを覚えておく道理はありません。記録のない世界、どうせ忘れるのなら、早いにこしたことはないというわけです。
とりわけリーダーのガルーダは、記憶力に乏しく、頭のなかには食べることと女を抱くことのふたつしかない男です。まさしく原始人を代表するような男でした。
が、諦めきれないのはルランです。彼にはなぜかしら物事を記憶する力があり、一度考えついたことを頭のなかから消し去ることができなかったのです。
ルランは、ガルーダを説得するのを諦め、マーラー本人を問い詰めました。といってそれは、ガルーダにしたようにただ言葉を並べて繰り返すだけでしたから、やはりマーラーの反応もガルーダと同じようなものでした。マーラーは首を横に傾げ、不思議そうな顔をしてルランを見つめるばかりです。
ルランは、目の前にはっきり見えているのに、それに手を触れることのできないもどかしさを覚えました。
どうやってみても自分のいいたいことが伝えられないのです。
それからというもの、そのことばかり考えてしまいます。思うように狩りもできません。さらにはあの日以来、皆から慕われるようになったマーラーの態度も鼻につきます。
マーラーの序列はルランのすぐ下です。当時の男性にとって序列はひどく重要なものでした。
まあ、それはいまでも変わりはございませんが。
八日経ち、アフリカの夜空に下弦の月がかかるころ、ルランはまだ寝つけずにいました。そのとき、ふとある考えが浮かんできました。
——マーラーがハンハンを殺害したことを示す何かを見せれば、皆は自分のいっていることをわかってくれるかもしれない。
いわゆる物証です。その物証は、言葉の通じぬ原始人のような人間でも——これは比喩ではありません——見ただけでわかるものでなくてはなりません。
ルランは起きあがると、いびきを立てて寝ている仲間のあいだを縫って洞窟を出ていきました。
空には眩しいとさえ思えるほどの満天の星が輝いています。そのなかでもとびきり大きく輝いている星が月です。その大きさは巨大で日々形が変わります。ルランにはそれが不思議でなりませんでした。
——どうしてあれは、毎夜削られるようになくなっていくのだろう?
疑問には思うものの、その気持ちを誰かと共有することはできません。月を見るたびに煩悶するばかりです。
ルランは森に向かって歩いていきました。マーラーがあの妙な味の鳥を獲ってきた方角です。現代よりもかなり気温の低かった時代です。ルランは震えながら月に照らされる大地を歩きました。
荒野をしばらく歩いていくと、森に複数の赤い点が見えました。月光に赤い実が照らしだされているのです。
——シュシュだ。
ルランは、マーラーのいったことを思い出しました。マーラーにハンハンのことを尋ねたとき、彼は「シュシュ」といいました。あの言葉は、ハンハン殺害の現場を意味していたのかもしれません。
ルランはシュシュの密生しているあたりへ行き、何かないかと探しました。
しかしどれだけ探しても何も見つかりません。見つかるのは虫の死骸や石ころばかりです。
ルランは夜空を見あげました。
——明るくなってから探すか。
月がどれほど明るくとも太陽にはかないません。ルランは繁みを見つけると、そこに横になりました。寒さに身を縮こまらせます。
身体を丸め、月を見あげて思いました。
——いったい自分は何をしているのだろう?
確実に“それ”があるとわかっていても、誰にも伝えられなければ、それは存在しないも同然なのです。
翌朝、ルランは、何かがゴソゴソという音で眼を覚ましました。小さな虫が蠢くような音です。なんだろうと思ってその音のほうへ這っていきます。
三メートルほど進んだでしょうか。ぽっかりと円状に草地がない場所がありました。その真ん中に平べったい石があり、その上にアリやら甲虫やらがひとところに集まっているのが見えました。さらに近づいてみますと、虫たちは何やら丸いものに群がっています。
それを見たとたん、またしてもルランの頭にあの閃きがやってきました。
——これは人間の頭だ!
彼らはその肉を食んでいるのです。その丸い物体は、肉片のかけらが残っているものの、もはや顔を判別することのできない状態になっていました。付近には、人間の脊椎やら肋骨やら大腿骨らしきものも見えます。
まだかろうじて残っている頭髪を掴んで頭部を持ちあげると、丸い形から丸顔のハンハンの顔が思い浮かびました。
——ここでハンハンは殺されて解体されたのだ!
ルランは空を見あげて喜びを噛みしめました。
——これをマーラーに見せれば、罪悪感からマーラーは自分のしたことを認めるはずだ。
そもそも当時の人類に罪悪感なるものがあるのかどうか疑わしいところですが、少なくともルランにはそれがあり、マーラーも同じように感じるだろうと思ったのです。人は他人も自分と同じように感じると思うものです。
往々にしてそれは間違いなのですが。
頭蓋骨の上あたりを触ってみますと、そこにへこみがあります。それはいかにも棍棒で叩いた痕のように見えました。
ルランはそのときの様子を思い浮かべてみました。
ハンハンがシュシュに夢中になっていたとき、ふいにマーラーが呼びかけます。ハンハンが振り向いたところをマーラーが棍棒を振りおろす——このようなイメージがまざまざと頭に浮かびました。
——間違いない。
これさえあれば、仲間を説得できる!
太陽が南中するころ、ルランは洞窟に戻りました。
ちょうど午前の狩りを終えた男たちが戻ってきたところでした。皆はルランが帰ってきたことに驚いていました。ルランはこの群れの出身ではありません。したがって群れを出ていく必要はないのです。
そのルランが夜のあいだに群れを出ていったことを皆は不思議に思っていました。さらには、そのルランが帰ってきて、皆の当惑は増しました。群れを一度出ていった男は通常戻ってはこないものです。出ていったことも異例であれば、戻ってきたことも異例でした。
この不測の事態に皆どう対処すべきかわからないようでしたが、そこはやはりリーダーのガルーダが皆を代表してルランに近づいていきます。
何かを尋ねたいような顔をしていますが、もちろんガルーダにはその術がありません。ただルランを睨みつけて唸り声をあげるだけです。
ルランは洞窟の前で、手に持った頭蓋骨を持ちあげてガルーダに突きつけました。そこに言葉を添えます。
「ハンハン、ポー、ハンハン、ポー」
それからマーラーを睨みつけます。これで自分の意図が伝わったはずだとルランは思いました。
が、誰も何もいいません。皆ルランの持つ丸い頭蓋骨を見つめるばかりです。マーラーもそれをじっと見つめていますが、その表情に驚いた様子はありません。
子供たちは首を傾げて頭蓋骨を見ています。人骨だと理解していないのかもしれません。どうして食べられないものを持って帰ってきたのだと呆れているようにも見えます。
ルランは大声で繰り返しました。
「ハンハン、ポー、マーラー、ポー、ハンハン、ポー!」
いい終わって仲間をじっと見ます。ふたたび洞窟のなかに沈黙が訪れました。やはり反応はありません。
ルランには彼らはまったく無反応に見えたのですが、じつのところ、皆はルランが何かを伝えようとしていることには気づいていました。ルランが必死になって何かを訴えていることはわかるのです。ただその“何か”がわからないのでした。
ルランは洞窟に入ると、いつもマーラーが使っている棍棒を持ってきました。それを頭蓋骨にあてて見せます。
が、皆はぼんやりとした顔でルランを見ているだけです。ルランはマーラーの棍棒でその頭蓋骨を叩きました。乾いた音が響きます。
子供たちは音に反応して驚いた顔をしましたが、大人は無反応です。
ルランは、「ハンハン!」と叫びながら頭蓋骨を何度も叩きました。それでも反応はありません。
皆の表情がだんだん硬くなってくるのにルランは気がつきました。その表情を見ながら、ルランの頭には次のような考えが浮かんできました。
——ひょっとして彼らは、このルランがハンハンを殺したと思っているのではないだろうか?
無論、誰もそんなことは考えていません。ただ、ルランが何をしているのかわからなかっただけです。が、ルランにはそれがわかりません。
ルランは焦り始めました。
なんとかして自分のいいたいことを伝えなければ、自分の立場が危なくなる……。
——そうだ、マーラーがハンハンを殺した場面を再現してみせよう。それなら皆も理解してくれるはずだ!
ルランは、マーラーの腕を掴むと、彼を引っ張りだしました。マーラーはこれから何が起こるのかわかりませんから、されるがまま、ルランに手を引かれて洞窟の外に出ます。
ルランは、棍棒をマーラーの手に握らせると、自分はハンハンの役をするべくうしろを向きました。それから大きな声で「ハンハン!」と叫んで自分の胸を叩き、次いで、「シュシュ」といいながら、シュシュの実を樹から採って食べる真似をしました。最後にマーラーと向き合い、呆然とするマーラーの手を掴むと、棍棒でルランの頭を叩くように彼の手を動かしました。
そこで、どうだ、といわんばかりに皆を見ましたけれど、皆は口を半開きにしてルランを見つめるだけで何も反応を示しません。
ルランはますます焦りました。いよいよ皆が自分を疑っているのではないかと思ったのです。
ここまで聴いてこられた方ならおわかりになるかと思いますが、ルランはなかなか頭のまわる男でした。ここ数日はことさらいろいろなことに思慮が働くようになっています。
ルランはさらにこんな疑いを抱きました。
皆は、ルランがマーラーにハンハン殺害の責任を押しつけようとしている、と思っているのではないだろうか。
もちろん、誰もそんな複雑なことは考えていません。ただルランが動きまわっているのを興味深げに見ていただけのことです。
ルランはマーラーの手に持たせた棍棒をとりあげると、今度はマーラーの役も自分で演じました。
「マーラー!」と叫んで自分の胸を叩き、棍棒を振りおろします。すぐさま振りおろされた先に自分の身体を持っていき、「ハンハン!」と叫んで頭を殴られた演技をします。そこで転げまわります。苦しそうな呻き声をあげながら。すぐに立ちあがるとまた「マーラー!」と叫んで先ほどと同じことをしました。
ルランは頭のよい男でしたが、このときばかりは分別を失くしていたのでしょう。それは一日じゅう歩き続けたせいもあるでしょうし、自分の伝えたい事柄を誰にも伝えられないもどかしさのせいもあったでしょう。なんと彼はこの動作を三十一回も繰り返したのです。
そこでルランは気を失いました。