1.
赤ずきんは、グリニッジ天文大学の構内をずんずん進んでいきます。地面にチョークで何かを書きつけている人、ギロチンの刃をすぱんと落として手元のノートに何かを記録している人、両手に抱えた何千個というサイコロをばらまき、学生らしき若者たちに出目を確認させているおじさん……まったく大学って、本当に役に立つことを研究しているのかしらと呆れました。
赤ずきんの後ろからは二人の男性がついてきます。一人はニール警部。もう一人は、汚れた白衣を着た、卵のようなかたちの頭をした男性です。サムといって、スコットランドヤードの科学技官だそうですが、検視もできるのでした。
ようやく、目当ての人が見えてきました。
「ウィアード教授」
赤ずきんが声をかけると、今まさに装置の腰掛け部分にまたがってペダルを踏もうとしていたその男性が振り返りました。
「おや君は、赤ずきんじゃないか」
「覚えていてくれて嬉しいわ」
微笑みながら赤ずきんは、教授の上着の袖に、黄土色のものがこびりついているのを見逃しません。
「後ろの二人は?」
「こちらはニール警部。こちらはサムさん。二人とも、スコットランドヤードの人よ」
その言葉に、装置から降りるウィアード教授の顔が少し陰ったような気がしました。
「スコットランドヤードが、気象の研究者である私に何の用かね?」
「この先の数学科の棟で、事務員のヘレナ・ヘンダーソンさんが首を吊った状態で発見されました」
ニール警部が口を開きました。
「現場の扉には鍵はかけられておらず、なぜか床に敷かれた絨毯はぐっしょり濡れていた。ロープに首をかけて吊り下がっている遺体の下には、踏み台に使われたらしき木の椅子が倒れていて、大きめのトランプが四十枚と、本が散らばっていました」
「それは気の毒なことだったね」
「ああ、気の毒ですな」
ウィアード教授に応じたのは、ニール警部ではなく、サム技官です。
「私の見立てでは、死亡推定時刻は夜中の十二時から午前三時のあいだですな。けひひ」
何が可笑しいのか、サム技官は気味悪く笑いました。
「私には何の関係もないことだ。実験の邪魔だから帰ってくれないか」
「聞いたところによれば、この大学には《ゴールデン・ドロップ》という紅茶の同好会があるとのことですね」ニール警部が口を開きます。「ヘレナさんはそこの会員だった。あなたもです、ウィアード教授」
「それがどうしたんだ」
「ここ数か月、会の積立金が少しずつ抜かれていることが明らかになりました。同時に、あなたの人工降雨の機械がグレードアップしたという話も聞いています。もし金を盗んだのがあなたで、ヘレナさんがそれに気づいたのだとしたら……」
「知らん知らん! だいたい、昨晩は朝の五時まで、この先のパブでウィスキーを飲んでおった。店主のボブに訊いてみたらいい」
「そうですか」
ごほり、とニール警部は口元に左手を当てて空咳をしました。薬指の結婚指輪が鈍く光ります。
「それではもう一つ。先ほど聞き込みをかけたところ、今朝五時三十分ごろ、数学科のジェームズという学生が、数学科の棟の前でその人工的に雨を降らせる機械を運ぶあなたと会い、挨拶を交わしたとのことです。あなたは、そんな時間にそこで何を?」
「人工降雨の実験のために装置を運んでいたんだ。気象学科は数学科よりも向こうだ。何のおかしいことがある?」
これを聞いて、赤ずきんは思わず自分の口元がほころぶのがわかりました。
「ねえ、ウィアード教授、どうしてあなたは、実験する日の前に夜通しパブでお酒を飲んだの?」
「なんとなく、以外にない。大人にはそういうときもあるんだ」
「ねえ、ウィアード教授、あなたの袖にはなぜ、黄土色のものがこびりついているの?」
「ああ? なんだこれは。どこかでつけたのだろう。知らん知らん」
「それじゃあ」赤ずきんは教授に一歩近づきました。「あなたの犯罪計画は、どうしてそんなに杜撰なの?」
教授の目を見て、赤ずきんは続けます。
「ヘレナさんを殺したのは、あなたね?」
教授は一歩退き、がたん、と装置に手をつきました。
「さ、さっきも言っただろ。ヘレナが死んだとき、私はボブのパブに……」
「死亡推定時刻が割り出せることを見越して、アリバイを作っていたのよ」
「アリバイだと?」
「そう。あなたはきっと昨日の夜遅く、『特別な紅茶が手に入った』とでも言ってヘレナさんをあの部屋に呼び出し、眠り薬入りの紅茶を飲ませて眠らせたのよ。そして、昨日の夜十二時すぎにヘレナさんが首を吊って亡くなるように細工をして、パブに向かったの」
「そんな細工、できん」
「できるわ。そのおかしな雨降らせ機械と、これを使ってね」
赤ずきんはバスケットに手を入れ、あるものを取り出しました。ドッジソン教授からもらってきた、ファッジという硬いお菓子です。
「このファッジというお菓子は、砂糖と牛乳、バターなんかでできているそうね。ロンドン風のレシピだと、作り立ては柔らかいけれど、乾くとレンガみたいに硬くなってしまう。私も食べたけど、カッチカチで口の中で何分も転がしているうちにようやく甘くなって溶けていくのよ」
「そんなお菓子も知らん」
「おかしいわね。その袖についている黄土色のものは、ファッジに見えるけど」
ウィアード教授はさっと自分の左袖に目をやります。教授の足ががくがく震えているのを、赤ずきんは愉快に思いました。
「あなたはファッジの性質を利用して、トランプと本で台を作ったのね。きっと昨日の昼ぐらいよ」
まず分厚い本を四冊、四角く配置して土台にし、その上に柔らかい状態のファッジを載せ、大きめのトランプを刺して立てていくのです。一枚では強度の低いトランプでも、四十枚も立てればかなりの強度になるでしょう。その上に残ったトランプを載せ、ファッジに支えられた台を作ったのです。
「あなたは、あらかじめ作っておいたその台の上に椅子を載せ、眠ったヘレナさんを座らせた。ロープの端を換気用の鉄柵に結び付け、もう一方の端を輪にし、一度天井のフックを通してから彼女の首にかけて、部屋を出た」
「そ、そ、それじゃあ彼女は首を吊った状態にならんじゃないか」
唾を飛ばすウィアード教授の顔はもう、死人のように真っ青でした。
「そこで登場するのがその雨を降らせる人工降雨装置よ。あなたは部屋の中にそれを持ちこみ、雨雲を作り出した。今朝、私をびしょ濡れにした土砂降りの雨じゃなくて、ロンドン名物のしとしととした弱い霧雨を降らせる雲よ」
「うっ……」
正直な人と見え、ウィアード教授は肩を落とします。
「すべての細工を終えると、あなたは馴染みのパブに行き、朝の五時まで飲んでアリバイを作った。そのあいだに雨雲はしとしとと、椅子の下の台を湿らせていく。硬いファッジは溶けていき、やがて台にしたトランプは崩れる」
椅子は倒れ、ヘレナの体はロープに吊り下がるというわけでした。
「パブの店主にばっちり自分の存在を印象付けたあなたは、五時過ぎに店を出て、現場に戻った。まず現場から片づけなければならないのは、人工降雨の装置よ。それがあるところが誰かに見られたら、トリックがまるわかりだもの。ところがここで大誤算が一つ。ジェームズという学生がびっくりするくらい早くやってきたことだわ。ちょうど数学科の外に装置を出したところで、あなたは彼と鉢合わせてしまった。なんとかごまかしたけれど、数学科に所属していないあなたが建物の中に入るところをこれ以上見られたら、死体発見後に事件との関連を疑われてしまう。仕方なく、ここまで装置を運んできて実験を開始したの」
どう? と言わんばかりに顔を睨みつける赤ずきんのほうを、ウィアード教授はもう見ていませんでした。頭上を見て、足をふらつかせながら、
「その……証拠は……どこに……?」
力なく訊ねます。けひひとサム技官が笑いました。
「現場の絨毯やトランプや本を細かく調べりゃ、ファッジで固めたあとが見つかるでしょうな。それを、あんたの袖についているカスと照合したらまあ、決まりですな」
「あっ……あっ……」
天井を見上げ、幽霊のように左右に揺れるウィアード教授。
ピーッ!
けたたましい音が鳴り響きました。ニール警部が呼子笛を吹いたのでした。建物の陰に隠れていた警官たちが一斉に出てきて、ウィアード教授に向かっていきます。ウィアード教授はどたりと、目を回して倒れたのでした。
2.
赤ずきんたちはそろって、ドッジソン教授の研究室に戻ってきました。ドッジソン教授はロープで椅子に縛りつけられており、見張り役のグレゴリー巡査が、アリスとポーカーをしていました。
「ドッジソン教授、疑って申し訳なかった」
ドッジソン教授に向かい、ニール警部は謝りました。
「やはりウィアード教授が犯人でした。グレゴリー、教授を放してやれ」
「はっ」
グレゴリー巡査がロープを解くと、ドッジソン教授は心底安心したように、くふくふと笑いました。
「犯行の手口まで赤ずきんがぴたりと言い当てた通りだった。私たちは優秀な探偵を見つけたようだ」
ニール警部は赤ずきんを褒めました。
「くふ、くふふ、ありがとう、本当にありがとう」
「お礼ならジェームズという学生さんに言ったらいいわ。彼の証言がなかったらウィアード教授を追い詰められたかどうかわからないもの」
「くふ。ジェームズ君か。彼の二項定理の論文はまだ改善の余地があるが、前途有望な学生なんだ。今度、お菓子をあげておこう」
ドッジソン教授は体を揺らし、両手の指をイソギンチャクのようにくねくねと動かして喜びました。
「なーんだ。あたしはてっきりドッジソン教授が犯人だと思ってた」アリスが言いました。「そのヘレナっていう人に言い寄ってたんじゃないかしらってね」
「ヘレナはとてもすてきな女性だったよ。〝パックのイタズラ〟を仕掛けようかと思ったときもあった。でも、二か月ほど前に失くしてしまったんだよ」
残念そうにドッジソン教授は言いました。
「サム、君は見たことがあっただろうね。鉱物の教授から私がもらい受け、プリズム状に加工して大事にしていた青い宝石だ」
「ああ、見たことありますな」
技官のサムは、この大学の出身で、ドッジソン教授とは学生時代からの知り合いだということでした。
「それって、どんな宝石なの?」
赤ずきんは訊ねます。
「太陽の光を透過して出る青い光を、三か月から半年かけて女性の体に毎日一時間ばかり当てるんだ。そうするとその女性は、次第に光を当てた男に惹かれていくという。かつてその宝石に力を吹き込んだ恋の妖精の名をとって、〝パックのイタズラ〟と呼ばれているんだよ。くふ、くふ、くふふふ……」
「あれ、失くしてしまったのですか、ドッジソン。残念ですな、けひ。我々独身男にとっては、最後の頼みの綱みたいなもんですからな、けひ」
くふ、くふくふふ。けひ、けひひひひ。
「そんな変な魔法を使わないで、自分でなんとかしたらいいのに」
気味悪く笑いあう中年男たちを見ながら、アリスが肩をすくめました。
「まあいいわ。そんなことより教授、赤ずきんがお家に帰るのを手助けしてあげなきゃ」
「お、そうそう。虹の霧だったね。私の計算によるとだね」
ドッジソン教授は、机の上に散らばっている紙束をかき集め、数式を確認しました。
「三日後の夜の八時から九時のあいだ、マンチェスターの沖合四キロメートルの位置に虹の霧が出るはずだねぇ」
「意外と早いじゃない!」アリスが声をあげました。「よかったわね、赤ずきん」
「でもそれって上空に出るんでしょ? ティンカーベルの粉がないと、私、飛べないわ。またガチョウのミルに頼めるかしら」
「心配しないでもいいんだよ」ドッジソン教授は紙にサラサラと計算式を書き進めます。「今回の虹の霧は、海面すれすれに出るはず。気象の条件がそうなっているからねぇ。誰かが船を出してくれれば、船べりから飛び込めばいい。ランベルソのすぐ近くまでは行けるはずだよ。くふくふ」
「そんなことまでわかるの?」
「見くびってもらっては困るよカップケーキちゃん。私はこう見えて、この大学では一番の数学の教授なんだからねぇ」
これは希望が見えてきました。
「あとは、船に乗せてくれる人を探さないと」
「それも私が手配してあげよう。古い知り合いに優秀な船乗りがいるよ。レミュエルっていう気のいい男さ」
「へぇー、そういう友だちもいるんだ。意外だわ」
アリスが言いました。
「ありがとうドッジソン教授。感謝するわ。でも三日後か、それまでどこに泊まればいいかしら」
赤ずきんは訊ねます。
「スコットランドヤードに泊まればいいですよ」
そう言ったのはグレゴリー巡査でした。
「その代わり、ロンドンを離れるまでのあいだでよいので、私たちにその頭脳を貸してくれませんか。ねえ、ニール警部」
「ああ、私もそう考えていたところだ」
そしてニール警部は、赤ずきんに頼んだのです。
「赤ずきん、ジャック・ザ・ディッパーを捕まえる、手伝いをしてくれないか」
