1.
「黒い建物って、どこよ……」
赤ずきんは、周囲をキョロキョロ見回しながら歩いています。
ガチョウおばさんに連れられてやってきたのは、レンガ造りの古めかしい建物が密集する場所でした。グリニッジ天文大学―ひときわ目立つのは円柱状の大きな塔で、最頂部のドーム状の屋根には、大砲ほどもある望遠鏡が設置されています。
ドッジソン教授の研究室のある数学科は奥の黒い建物だということだったので、ガチョウおばさんとガチョウのミルに別れを告げ、赤ずきんは歩き出しました。
時刻は朝の八時を回ったばかり。人はほとんど歩いていません。黒い建物はなかなか見えてきませんので、赤ずきんはとりあえず望遠鏡のある塔を目指すことにしました。
ぽつり―赤ずきんの頬に水滴が落ちてきました。
「雨?」
空を見上げてびっくり。さっきまで晴れていたのに、黒い雲が出ているではありませんか。しかもそれは、空高く出ているのではなく、赤ずきんの頭上数メートルのところに密集しているのです。
ぽつり、ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ……ザーッ!
あっという間に本降りになりました。
「何なのよ!」
赤ずきんはバスケットを傘代わりにして、走ります。すぐに、雨雲の下を抜けることができました。振り返ると、さっきまで自分がいた数メートル四方だけが土砂降りになっているのでした。
「やあ、すまんすまん」
しわがれた声がして振り返ると、そこには、不思議な装置にまたがった四十歳ぐらいの男性がいました。木の箱に布張りの座席がついていて、足元のペダルと連動し、車輪と歯車が回るしくみになっています。横に設置されたガラス容器の中には黒い液体が入っていて、つながっている煙突からもくもくと雨雲が出ているのでした。
「誰?」
「この大学で気象学を研究している、ウィアード教授だ。今、人工降雨装置の実験をしているんだ」
小さな雨雲を作り出す装置だと、教授が説明しました。
「ロンドンはただでさえ雨が多い。だからこういう晴れた日の、人の少ない朝にしか実験ができないんだよ」
「ちゃんと周りを見てから、実験してよね」
「すまない。ところで赤いずきんなんて奇抜な格好だね。占星術科の学生かな?」
「私は学生じゃないわ。赤ずきんっていう旅人よ。数学科のドッジソン教授を探しているの」
「ドッジソンだって?」
ウィアード教授は目を丸くし、そして、意味ありげにくすくす笑いました。
「なるほどなるほど。あの変人に、女の子のお客さんというわけか」
「何よ、おかしい?」
「いいや、おかしくない。数学科はこの先だ。気を付けなよ」
一応、ウィアード教授にお礼を言って、赤ずきんは進んでいきます。
朝なのでまるで人がいない道をしばらく行くと、黒い建物が見えてきました。しかし困ったことに、その向こうにも二つ、合計三つの黒い建物があるのです。
いったいどの建物に数学科が入っているの?と困った赤ずきんの目に、一人の男性の姿が見えました。
長身で、黒いコートを羽織ったその男性は、しゃがんで地面にチョークで数式を描きつけているのです。
「すみません」
「はい? おや、ずいぶん早いですね。まあ、僕も人のことは言えないが」
「お訊ねしたいのですけど」
「その赤いフードは雨具ですか? ということは、ウィアード教授の生徒さんですね。教授なら今、その建物を出てきて機械を持って向こうへ行きました。そういえば教授も今日はずいぶん朝が早いなあ。気象学研究室と間違えたのでしょうかね」
「私は、数学科を探しているの。あなた、数学科の学生さんじゃないの?」
「いかにも。私はジェームズ。数学科の学生です。数学科はこの建物の中ですよ。鍵は開いていると思う」
青年は、すぐ近くの建物を指さしました。
「ありがとう」
ジェームズは不思議そうな顔をしましたが、すぐにまた、計算に戻っていったのです。赤ずきんはドアを開きました。
入ってすぐのところに受付らしき小窓がありました。小窓にはカーテンがかかっています。
「ごめんくださーい」
声を掛けますが誰も出てくる様子はありません。まだ受付の時間じゃないのかしらと思いながら建物に入りますと、小窓の上、天井付近に換気用と思われる鉄柵がありました。鉄の棒が四本あり、そのうちの一本になぜかロープが結び付けられています。ロープの端はこちら側ではなく、受付の部屋の中に向かっていました。
「嫌な予感がするわね」
赤ずきんはドアノブを握ります。鍵はかけられていません。おそるおそるドアを開き……
「はぁ~……」
ため息をつきました。
半地下の部屋ですが、女の人がロープで首を吊っているのです。ロープは天井に取り付けられたフックに一度引っかけられ、こちらに向かってきて、鉄柵の棒に結び付けられているのでした。女の人の足元は床から一メートルほど浮き、そばにはチョコレート色の椅子が倒れています。そして、周囲になぜか、本や大きめのトランプが散らばっているのでした。床の絨毯は濡れているようです。
「ちょっと、誰か、誰か来てっ!」
左右に延びる暗い廊下には、赤ずきんの声がぶわんぶわんと響くばかりです。
「ああ、なんでまた死体……」
と、頭を抱えたそのとき、右側の廊下から、たったったったと誰かが走ってくる音がしました。赤ずきんは顔を上げます。
「うさぎ?」
たしかにそれは、白いうさぎでした。ただし、タキシードを着て、シルクハットを被り、鼻眼鏡までかけています。それが、人間のように二足で走ってくるのです。
「ねえ白うさぎさん、大変よ。この中で人が死んでるの」
白うさぎはぴたりと止まりました。
「それはまさか、女王様への手土産ですか?」
赤ずきんの言うことになどまったく興味を示さず、手に提げているバスケットを指さしてきます。
「これは……私の荷物だけど」
「女王様のクロッケー大会へ行くのですね?」
「違うわ。ドッジソン教授に会いに来たのよ。そうだわ。教授ならきっと、この緊急性を理解してくれる。あなた、ドッジソン教授の研究室を知らない?」
「ああ、そうか。私はうっかり、手土産を忘れてしまった。首を刎ねられてしまう」
さっぱり意味がわかりません。
「ねえ、話を聞いて」
「もう時間がない! 後生です、私にそれをください」
白うさぎは赤ずきんの手からバスケットを奪い取り、走っていきます。
「泥棒!」
赤ずきんは叫びますが、ぴょーん、ぴょーん……うさぎの足は速く、追いつけそうもありません。廊下は上がったり下がったり、時にぐるぐる回ったり、普通の建物では考えられないくらいに歪んでいてどこまでも続いています。これは本当に現実でしょうか。なんだか頭がくらくらしてきました。
しばらく追いかけていると、白うさぎはあるドアの前で立ち止まり、そのドアの下のほうに開いていた穴から部屋に飛び込んでいきました。赤ずきんもすぐに入ろうとしましたが、穴が小さすぎて入れそうにないので、ドアノブを握って引き開けます。
「何よ、ここ!」
びっくり仰天。そこは、青々とした芝生の広がるお庭だったのです。
空は青く、白い雲が浮かんで、のどかな光景です。魚や猫や、何かよくわからない怪物の形に刈り込まれた植木が散在し、小さな机で大柄な中年の男性が難しい顔をして書き物をしているのでした。
「あのー」
赤ずきんが話しかけると、その男性はゆっくりと顔を上げ、
「おや、まあ!」
と驚いた顔をしたあとで、急にニコニコしました。
「どこから迷い込んできたんだろうね、このカップケーキみたいな女の子は」
「私は赤ずきんというの。今ここに白いうさぎが飛び込んできたと思うんだけど」
「くふふ。白いうさぎはいつだって飛び込むものなんだよ、カップケーキちゃん」
「私はカップケーキちゃんじゃないわ、赤ずきんよ。そんなことより、女の人が首を吊って……」
ふと、机の上の紙が気になりました。そこには、男の人が描いていた絵があります。ふわふわとした雲が、水彩絵の具で色とりどりに塗られていました。その絵に赤ずきんは思わず見入ってしまいました。
「これって、虹の霧じゃないかしら?」
「いかにも。虹の霧の発生条件の計算は、私の主要な研究テーマの一つだよ」
「じゃああなたが、ドッジソン教授?」
「んー?」
男の人が赤ずきんに顔をぐぐっと近づけてきました。小さなレンズの丸い眼鏡。皺だらけのほっぺた、縮れた髪。やがて、くふふと笑うと、男の人は両手を顎に近づけ、十本の指をまるでイソギンチャクのようにぐにゃぐにゃと動かしたのです。
「それは大学での私の名前。ここでは知られたくないので、キャロルと名乗っておる」
「ドッジソンとキャロル、全然違うじゃない」
「ばらばらにしてつなぎ合わせるといっしょなのさ、カップケーキちゃん。ファッジをどうぞ」
教授は、絵の横にあったお皿を差しだします。茶色くて、親指ぐらいの大きさの四角いお菓子がいくつか載っています。赤ずきんは一つ取って口に放り込みました。
「何これ、硬いわ」
「ロンドンのファッジは硬いのさ。しばらく舐めているとだんだん溶けてくる。くふ。くふふ」
不気味な笑い方をしますが、ドッジソン教授に会えたのは一安心でした。ひとまず、女の人の死体のことはおいておき、赤ずきんはガチョウおばさんから聞いたことを含めて、これまでのことを話しました。
「ほうほう。そうかね。それじゃあ、次に虹の霧が出る日を計算で出してやらないでもないが……」
ドッジソン教授は机の脇に掛けられていた黒板を取ると、チョークで図と式を書きました。
「実は今、別の研究テーマの検算中なのさ。ときにカップケーキちゃん。君には今、周りの景色がどう見えるかね?」
「どうって……お庭よ」
「くふふ。そうかいそうかい、くふふふ」
ドッジソン教授はまた、気味の悪い笑い声を立てました。
「勝ち気で生意気な点Aはすでに動きはじめているんだけれど、もう一つパラメータを導入して、どうふるまうかを観測するのも面白そうだね」
「何を言っているの?」
訊き返す赤ずきんの口の中で、ファッジというその甘いお菓子はようやく柔らかくなってきました。
赤ずきんの足の下を、ぴょーんと白い塊が通り抜けます。
「あっ」
白うさぎでした。赤ずきんのバスケットを携えています。
「待ちなさい!」
白うさぎは、犬の形の植木とピエロの形の植木のあいだにすっ、と逃げ込みました。赤ずきんも追って飛び込んだ次の瞬間―地面が消えました。
「あああ~~~っ!」
いいえ、違います。深い穴が開いていたのでした。
「なんでこんなことに、なっちゃうの~~っ!」
赤ずきんは、地中深く深く、落ちていきます。
「気を付けて、楽しんでおいで―」
ドッジソン教授の声が聞こえました。くふふ、くふふという笑い声が、遠のいていきます。
