赤ずきん、アラビアンナイトで死体と出会う。【試し読み】_タイトル画像

アラジンと魔法のアリバイ

シャハリアール1.

瞬く星空を天幕とし、クテシポンの町は眠りの底に沈んでいる。

青い月が見下ろすのは、町の中央、四つの尖塔を持つ宮殿である。

《音楽の間》から王国を称える優雅な弦楽器の調べが流れている。十五人の楽団が、夜通し奏でる安らぎの曲である。

その宮殿の広間を、紫色のターバンと灰色の衣服に身を包んだ大男が、二人の召使を引き連れてのっしのっしと横切っていく。二つの眼はライオンのよう、突き出た鼻は岩のよう、耳は尖り、頬は骨ばり、顔の下半分はひげに覆われている。

誰あろう彼こそが、今を時めくザザーン朝ペルシャの君主、シャハリアール・ザザーンである。

広間を満たす優雅な調べに反するように、シャハリアールの胸中には興奮の炎が燃えている。かちゃりかちゃりと腰で鳴る、亡き父から受け継いだライオン斬りのサーベル。今宵もまたこの刃が、新妻の血を吸うのだ。

広間を抜けた廊下を北へ。突き当たりの扉の前で足を止める。

「開けよ!」

声に応じ、子ザルのごとき二人の召使が扉を開く。目の前に現れたるは、黄色い渡り廊下。ペルシャの青い夜の空気を吸い込み、再び歩を進めつつ、シャハリアールは初めの妻、アメレイダのことを思い出す。

アメレイダを王妃として迎えたのは、父王が死んだ三年前の春であった。父王の古い友人の娘である美しき女―彼女を一目見たときから、シャハリアールの心は高鳴った。

大臣たちや地方の太守を集め、盛大豪奢なる婚礼の儀は三日三晩続いた。アメレイダの微笑みは銀の食器から滴り落ちる蜜のごとく。シャハリアールはその甘美な癒しに身を浸したのだった。

ところが、である。

婚礼の儀からわずかひと月。隣国サマーカンドを治める弟が宮殿へ遊びに来た。宮殿に泊まること三日目、シャハリアールの前に弟がしゃしゃり出てきた。

「どうした弟よ。お前は踊り子たちと遊んでいたのではないか」

「兄上、それどころではありませぬ。私は先ほど、サマーカンドの宮殿に敷く絨毯を求めようと、召使を従えて市場へ向かったのです。すると、宮殿の東のナツメヤシの林より、嬌声が聞こえました。覗いてみれば、声の主はアメレイダ様でした」

「なんと、わが妃か」

「はい。一糸まとわぬ姿で、兄上の召使、ズンバと戯れておりました。その破廉恥なる振る舞い、真昼の太陽も隠れてしまうほどの恥ずかしさ」

「なんだと!」

シャハリアールはすぐさま、アメレイダとズンバを呼び立て、事の真偽を糾した。初めはとぼけていた二人だが、すぐにアメレイダがぼろを出す。

「そうよ! あなたは王様かもしれないけれど、お話は退屈なの。それに、女に生まれたからには、多くの男と仲良くなりたいじゃない。私の遊びを裏切りというならば、私に楽しみを与えてくれないあなたの行為も、ひどい裏切りだわ」

シャハリアールは怒り心頭に発し、亡き父王のサーベルにてアメレイダを斬り捨てた。ズンバは、その日のうちに八つ裂きの刑に。それでも気は収まらぬ。―女とはみな裏切る者か。女とはみな獣か。女を信じてはならぬ。女など、女など、女など!

翌日よりシャハリアールは召使に命じ、クテシポンの町から若い娘を宮殿に連行し、片っ端から婚儀をあげては初夜のその日に血祭りにあげた。

サーベルが血を吸うこと、これまで実に三百九十九人。クテシポンの町から、若い娘はすっかりいなくなってしまった。

最後に残ったのが、宰相の娘、シェヘラザードである。

折れそうなほどに華奢な腰、エメラルドのように美しい瞳。鼻は小さく、唇はつややかで、黒い髪はカールーン川の水面のように光を弾く。

今日、四百人目の妻に迎えたその娘の姿に、シャハリアールは久々に心を動かされた。

しかし──騙されてはいけぬ。

女などみな、盛りのついた獣。愛欲のためならば平気で夫を裏切るのである。

渡り廊下の突き当たりは、黒檀の扉。麗しきタイルのモザイクに覆われたこの部屋は《王妃の間》である。

「開けよ」

二人の召使によって、扉はぎぎっと開かれる。雅なる伝統模様があしらわれたペルシャ絨毯。絹の布団を湛えたベッドが一つ。その天蓋の下で目を閉じて迎えるは、他でもない、新妻シェヘラザードである。

下に台でも置いてあるのか、高くなった枕にひじをつき、横たわっている。穢れを知らぬ、天女のようなその肢体。神よ、どうしてかように美しき娘をこの世に遣わしたのか──シャハリアールの心は揺らぐ。

いや、殺さねばならぬ。美しき王妃シェヘラザードは純潔なる初夜のうち、夫となったこのシャハリアールの手で、貞淑のまま天に召されねばならぬ。

シャハリアールが部屋に一歩入ると、二人の召使は外へ出て、すぐに扉を閉める。

シャハリアールはサーベルを抜き、一気に新妻に迫り、その細い喉に刃を突き付けた。

「お前は今宵、余の手で死ぬ。何か、言い残すことはあるか」

するとシェヘラザードはぱちりと目を開いた。

エメラルドのような瞳をシャハリアールに向け、彼女は口を開いた。

「クテシポンよりはるか西、ジュビダッドよりもっと西、ランベルソという町のすぐそばに、深い森がありました」

「なんだと?」

「その森の中に、丸太でできた小さなおうちがあって、不思議な女の子がお母さんと二人で住んでおりました」

「おい、何を言っているのだ?」

「女の子は、死んだおばあちゃんからもらった赤いずきんをいつも被っていました」

「ずきん?」

「だから彼女は、みんなから、こう呼ばれていたのです」

彼女は右手をすっと上げ、刃を押し戻しながら、その異邦の少女の名をシャハリアールに告げた。

「──赤ずきん」

赤ずきん1.

まったく、コーヒーなんて飲むんじゃなかったわ!

赤ずきんは、テーブルの上に直立不動で立っている、その妙ちきりんな男を睨み上げて思いました。

「びびび、びっくりしたあ!」

テーブルの向かいに座っている男の子が、目をリンゴのように丸くしています。

「コーヒーっていうのは愉快な飲み物だねえ。飲もうとしたら男の人が現れる。でもそのたびにカップが割れちゃうし、中身は全部こぼれちゃうし、愉快だけど僕はもう飲みたくないなあ」

男の子の名前はピノキオ。このあいだまで手足がバラバラの木の人形だったのですが、魔女に、人間の男の子にしてもらったのです。親代わりだったおじいさんが行方不明なので、しばらく赤ずきんの家で預かることになったのでした。

いや、そんなことは今、どうでもいいのでした。

「ねえお母さん、なんなの、この飲み物は? これ、どういう状況?」

赤ずきんは、ポットを片手に彫刻のように固まっているお母さんに文句を言います。

「わからないわ。私もびっくりしてるのよ」

コーヒーという黒い豆をお母さんが持って帰ってきたのは、つい三十分ほど前のことでした。ランベルソの朝市にチーズと小麦粉を買いに行ったのですが、街角で肌が浅黒い痩せた男に声をかけられたというのです。

ダマクスクスというはるか東の町からきたというその商人は、コーヒー豆をお母さんに見せると、「これを潰して飲んでごらん。甘いお菓子によく合うよ。健康的で、美容にもよくて、痩せるんだ」と言ったそうです。新しもの好きのお母さんはそれを買い求めました。

帰ってくるなり、朝ご飯を食べたばかりの赤ずきんとピノキオに、コーヒー豆を金づちで叩いて粉にするように言うと、お母さんはお湯を沸かしはじめました。そして、黒い粉になったその豆を三つのカップに入れ、お湯を注ぐと、エキゾチックな香りが湯気とともに立ち昇りました。

お母さんたら、妙なものを買わされたと思っていたけれど、コーヒーっていいものかもしれないわ──と赤ずきんが思ったそのときです。目の前のカップの中から、にゅにゅう~っと、ピンク色の丸いものが出てきたのでした。

それは、あれよあれよという間に人の顔になったかと思うと、ぱりんとカップを割って、さらに膨らんだのでした。腰から下にゆったりしたズボンを穿いている他は裸です。禿げた頭にちょろりと生えた髪と、太い眉毛に口ひげ。筋肉がしっかりしていて強そうなのですが、小さな目は左右に離れていて、なんだか頼りない感じです。

「あんたね、テーブルから下りなさいよ」

強気で迫る赤ずきんに対し、ピンク男はヤジャヤジャヤジャアと知らない言葉でしゃべりましたが、ハッとした様子でズボンの中から鳥の羽を一枚取り出しました。

虹の七色に彩られた、見たこともない羽です。ピンク男は、それを赤ずきんに向かって投げました。羽は、赤いずきんの右耳のあたりにぴたりとくっつきました。

「おらの言うことが、わかるだずか?」

なんと、今の今までよくわからなかったピンク男の言葉がわかるようになったのです。

「わかるわ」

「さすが、イーリス鳥の羽だず。シバの女王はイーリス鳥の言語能力を使って、マグリブのベドウィンどもを手なずけただずなあ」

言葉はわかるようになりましたが、内容はちんぷんかんぷんです。

「赤ずきんさんだずな?」

「そうだけど、何なのよあなた?」

「おらは、ジュビダッドからきた、指輪の魔人だず。ご主人様に、派遣されただず」

ジュビダッドという町に伝わる〝魔法の指輪〟に宿っているのだと、魔人は自分のことを説明しました。人間に指輪をこすられると指輪から姿を現し、こすった者を主人として、何でも言うことを聞かなければならないそうなのです。

……ていうことは、別にコーヒーから現れたわけじゃないのね?」

「コーヒー? なんであんな苦いもんからおらが現れにゃならんのだず? そんなことより赤ずきんさん。おらとジュビダッドに来てほしいだず」

「はあ?」

「ご主人様は今、金融大臣のバイサムを殺した科で牢屋に入れられとるだず。だがご主人様はやってねえと言っとるだず。明日の日没までに本当の犯人を捕まえなきゃ、ご主人様は首斬りの刑に処されるだず。赤ずきんさんなら、その犯人を捕まえてくれるだろうから連れてこいって、ご主人様に命じられただず」

「ねえ赤ずきん」

ピノキオが口を挟みました。

「さっきからこのピンクおじさん、ジャアジャアと何を言っているの?」

魔人の言葉がわかるのは、虹色の鳥の羽をつけた赤ずきんだけのようです。赤ずきんはピノキオとお母さんに、魔人の言ったことを手短に説明しました。

「ついていってあげなよ」

こともなげに、ピノキオは言いました。

「赤ずきん、そういうの得意じゃないか」

「『そういうの』って言わないの」

「ピノキオの言うとおりよ」

お母さんはいつの間にか、赤ずきんのバスケットを用意していました。

「おばあちゃんが生きていた頃、あなたに言っていたことを覚えているでしょ?」

──お前のその賢い頭は、困った人を助けるために神様が授けてくださったんだよ。

「今までだって困った人を助けてきたでしょ? 場所が遠くだって変わらないわ」

「それはそうかもしれないけど、私はこの人の言う、『ご主人様』っていうのが誰のことなのかもわからないのよ?」

「連れてきたらわかるって、ご主人様は言ってただず」

指輪の魔人は、両手を赤ずきんのほうに伸ばし、ぐいっと両肩をつかみます。

「わっ、わっ、待ちなさいって」

赤ずきんは慌ててお母さんの差し出したバスケットを握りました。次の瞬間、ぐわらんと赤ずきんは宙に浮いていたのです。

「行ってらっしゃい、赤ずきん」

「気を付けてね」

ピノキオとお母さんの見送りの言葉に返事をする間もなく、ばぎんと家の屋根を突き破り、魔人の背中に乗せられた赤ずきんは空高く飛んでいったのです。

こうして指輪の魔人の背中に乗ってジュビダッドに向かった赤ずきん。殺人犯を捕まえることができるのか?赤ずきんの新しい旅が始まりました……

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