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半世紀前――
東京の人々の足を
都電が多く担っていた頃、
外堀沿いに「双葉社」という
木造2階建ての小さな出版社があった……
試し読み 1965年、漫画がまだ子供のものだった時代、
木造2階建ての小さな出版社で
新しい漫画を生み出そうともがく男たちがいた――

編集長の清水文人は、一冊の同人誌をゴミ箱から拾いあげる。
発行人の名前は加藤一彦。
後のモンキー・パンチである。

当時を知る人々への徹底した取材と
漫画への愛情から紡ぎだされる熱き「漫画アクション」創刊秘話! 『ルパン』『子連れ狼』『同棲時代』『じゃりンこチエ』『クレヨンしんちゃん』……
数々のヒットを生んできた「漫画アクション」
定価:本体600円+税
定価:本体620円+税

『西遊記』が好きだから“モンキー”。風刺画から取って“パンチ”。
その2つが合わさって、“モンキー・パンチ”が誕生!
ペンネームの由来は諸説ありましたが、モンキー・パンチ先生と
実弟・加藤輝彦氏への最新インタビューで真相が明らかになりました。
この時のインタビューでは、以前からまことしやかに語られていた
“兄弟2人でモンキー・パンチ”説の間違いや、世間の誤解への正直な思いまで
語って頂きました。これを読めば『ルーザーズ』をより深く理解できます!
(本インタビュー記事は、「漫画アクション」2018年1月4日号に掲載されました)

モンキー・パンチ

北海道厚岸郡浜中町出身。1937年生まれ。貸本屋での漫画創作活動を経て、1966年『プレイボーイ入門』でデビュー。1967年『ルパン三世』を「週刊漫画アクション」で連載開始。これが大人気となりTVアニメ化・劇場映画化される。

加藤輝彦

北海道厚岸郡浜中町出身。1939年生まれ。モンキー・パンチの実弟。兄を追って上京し、貸本屋での漫画創作活動を経て、「少年マガジン」にてデビュー。『ルパン三世』連載時にはアシスタントとして兄を手伝う。

―『ルーザーズ』連載前の取材では、先生と清水文人さんの出会いを中心にお聞きしましたが、改めて当時の事を色々と伺えればと思います。

モンキー・パンチ(以下・モンキー):『ルーザーズ』は面白いですよ。全部見てますよ。

―ありがとうございます! さて、「漫画アクション」創刊の2年前、劇中の1965年当時ですが、お二人はそれぞれどちらにお住まいだったのですか?

モンキー:あの時は西巣鴨だったよな。

加藤輝彦(以下・輝彦):西巣鴨だね。

―同居されていたんですか?

モンキー:同居してましたよ。

輝彦:六畳一間で2人だったよ。

モンキー:あれ、六畳あったのかな(笑)。六畳間と言いつつも、押入にスペースを取られていたから、実際は四畳半くらいしかなかったんじゃないかな?

―お互い、どう呼び合っていました?

輝彦:アニキだから「ニィニィ」って呼んでましたよ。

モンキー:僕は「輝彦」でしたね。僕は長男ですからね。

―お年はいくつ違いなんですか?

モンキー:2つ違い、ボクが昭和12年で、輝彦は14年ですから。僕が上京したのは20歳の頃。それから4年くらい経ってから来たんだっけ?

輝彦:そう。家の近くの4年制の定時制高校を出て。

―当時、東京までどのくらいかかるんですか?

モンキー:48時間(笑)。青函連絡船も5時間くらいかかりますからね。

輝彦:特急とか急行とかに乗るとお金が高いから、鈍行でいくでしょ。霧多布から函館は、北海道のほぼ隅から隅だから一日がかりで行くわけですよ。それで函館から青函連絡船で青森にいって、青森から東京まで1日半くらいかかるからね。

モンキー:今なら釧路まで飛行機で1時間45分くらいで着くのに。でも、釧路から僕の田舎に行くのに交通の便が悪いんだよ。車でさらに1時間45分かかりますからね。

―結構ありますね。

モンキー:僕が最後まで住んでいた場所は、今は「モンキー・パンチ ミュージアム」になっているんですよ。でも常に開いてるわけじゃなくて、夏場の間だけなんだけどね。ありがたいことに、町の人たちも一生懸命やってくれているから、人が来てくれればいいなとは思いますね。

―当時は、仕事も一緒にされていたのですか?

輝彦:そのときは別々に描いてましたからね、貸本屋向けの本を。

モンキー:それに漫画家のアシスタントもやってましたから。

輝彦:その頃、下宿場は一緒だったけど作業は別々に仕事してたんだよ。

モンキー:あれは辻さんだっけ? アシスタントやってたの、辻なおきさんだ。

―『タイガーマスク』の先生ですよね。そうなんですか。

モンキー:『タイガーマスク』とか『0戦はやと』のアシスタントをやってたんです。僕はその頃、貸本屋の漫画を描いてましたからね。だから別々の生活でしたよ。そのあとに弟の方が講談社の「少年マガジン」で連載が始まったんだよ。僕より早かったですね。もちろん原作付きだったけどね。

輝彦:原作付きだったね。その「少年マガジン」では、ちばてつやさんの『ちかいの魔球』がヒットしたんですよ。それで編集長がその原作者を俺につけて時代物を描かせようとしたんだよ。引き受けたけど10回で終わっちゃったね、すぐ切られちゃった(笑)。

「マニア・ぐるうぷ」の実態

―当時のペンネームは?

輝彦:加藤輝彦で描いてた。そのまま本名で描いてましたね。

モンキー:僕の方は、あの頃は「マニア・ぐるうぷ」で色んな人の名前を連ねていたけど、実際は僕一人しかいなかったんだよ。

―一人何役みたいな。

モンキー:そうそう。

―この人がムタさん、この人が摩周さんではなくて。

モンキー:ないない。全部、僕。

輝彦:僕の貸本屋当時のペンネームもムタ永二だったけどね。

モンキー:同じペンネームで書いたこともありますよ。だから僕もムタ永二を使ったこともあるし。

―ムタ永二や摩周仙二は、やはり故郷への思いからですか?

輝彦:田舎の名前が霧多布だったから、霧が多いで「ムタ」と読ませる。この名前で貸本描いたの3冊くらいかな。摩周は摩周湖の摩周ですからね。あとは適当な名前だったな。時代劇ばかり3冊くらい描いたかな?

モンキー:出版社が時代劇を描けと言うからしょうがないですよね。僕が一番最初に持って行ったときは、手塚治虫先生の絵に近かったんですよ。でも貸本屋向けの本は「手塚先生の絵じゃダメだよ」って言われてさ、「こういう絵を描きなさい」って渡されたのが、さいとう・たかをさんの絵だったんですよ。どちらかと言うと、アメコミに近いんだよね。さいとうさんが、『007』を描いたことがあったんだけど、あれは羨ましかったですね。

―先生も描きたかったんですか?

モンキー:先にやられたみたいな。黒澤明さんの『用心棒』なんかも描いてますね、僕がやりたかった作品、みんなさいとうさんがやってるんだよ(笑)。『用心棒』なんか上手く漫画にしてるからね、さすがさいとうさんだよね。

―「マニア・ぐるうぷ」の中にはフジノリヲというペンネームもありますが。

モンキー:それは覚えてないなぁ、忘れてるね(笑)

輝彦:覚えてないなぁ。

―今日、「漫画ストーリー」のコピーをお持ちしたんですけど……。

モンキー:あっ、ホントだね(笑)。これ3人とも僕の名前なんだよ。誰か分からなくしてしまおうってことですよね。「この人誰だ?」って言われたら、「この人は辞めてもういないよ」って言えるようにね(笑)。

―第3話で描かせてもらったように、色々な会社に同人誌の「マニア」を送った時は4~5人の方で100冊ぐらい作ったというお話をお聞きしましたが?

モンキー:数人でグループを作ったのは間違いないよ。でも、家業を継いだり家の事情だったりで漫画を辞めてしまった人もいて、最終的にはみんなバラバラになってましたね。

―それでもやっぱり先生の中では「マニア・ぐるうぷ」と言うお名前には愛着はあったんですか?

モンキー:それはありましたね。結局、漫画家として残ったのは僕だけでしたね。だけどいまだに付き合っている人はいますよ。

間違いだらけのウィキペディア

―残念ながら、どこからも「マニア」には連絡がなかったわけですが、文人さんに双葉社に呼ばれた時のお気持ちは?

モンキー:清水さんから電話がかかってきた次の日に会社休んで行ったんだけど、肝心の場所がよく分からないんだよ(笑)。大きな建物を想像してましたから。以前に講談社に行ったことがあったから余計にね。

―講談社と比べたら(笑)。

モンキー:講談社に原稿を持っていったんだけど、会社の前まで行ってその門構えを見たら怖くなって入れなかったんだけどね(笑)。双葉社だって、3階建てや4階建てのビルだろうって勝手に想像してたから、それらしい建物がないんだよね。それでずっとウロウロしてて、やっと見つけたんですよ。

―そうして、いよいよ文人さんと初対面します。

モンキー:仕事をくれるってことで、嬉しくて有頂天になっちゃって(笑)。でもそのときに「女の子が描けてないよ」ってことを言われてね。女の子を勉強しなきゃいけないんだけど、絵の勉強なんてしたことがないですから、デッサンから始めないとダメだなって思ったんだよ。ちょうど僕が勤めていた商事会社のすぐ近くに絵の研究所みたいのがあったんですよね。それを思い出して、清水さんと別れたその日に入会しました。

―この辺りは、『ルーザーズ』の中でも描かせてもらいました。

モンキー:それから2年ぐらい通ってましたよ。その頃にね、ペンネームの話が出てきたんですよ。当時は「もうちょっと格好いい名前にして欲しかったな」って気もしましたけど、今考えるとおしゃれな名前だなとは思いますよね。“モンキー・パンチ”っていう名前を50年使ってきましたが、本当にありがたいですね。

―本当に一生使えるお名前になりましたね。

モンキー:でも、それがどういう訳か「兄弟でモンキー・パンチ」って言う誤解が世間に伝わってしまったんだよね。元々は週刊誌に書かれちゃったんだけど、いまだに定説になってるんだよね。まったく事実ではないんだけど、僕も雑誌の記事を読んでびっくりしたんだよ。「これは違う」って言ったんだけど僕の説明の仕方が悪かったのか、僕と弟の共通のペンネームで紹介されてしまって、それがいまだに響いてるというかね。

―そうなんですね。

モンキー:僕は「兄弟で漫画を書いている」という意味で言ったんだけど、それが「2人でモンキー・パンチ」って言う捉えられ方をしてしまったんだよね。ウィキペディアを見るとそう書いてあるし。あと「モンキー」という意味は、風刺画家モート・ドラッカーの絵を“猿マネ”をしたからだっていう風にも言われているんだけど、あれも間違いだし、悪意があるよね。清水さんにしても他の編集部員にしても、モート・ドラッカーの名前は知らないはずです。なにしろ当時の僕自身も『MAD』は読んでいましたけど、モート・ドラッカーの名前は知りませんでしたし。

―となると、清水さんがそこから取るわけもないですよね。

モンキー:それなのにモート・ドラッカーの真似をして描いてるから、猿まねという意味でモンキーってつけたんだ、って言われてるんだよね。それはちょっと腹が立ったんだけどさ。あと、田舎にいたときにモート・ドラッカーと『MAD』に触発されて漫画家になろうと東京に出てきたって言われてるでしょ? まったく違うんだよね。僕が漫画家になりたいと思ったきっかけは手塚治虫さんですからね、手塚先生の漫画を見て僕も漫画家になりたいなと思ったわけですからね。そもそも僕の田舎に外国の漫画雑誌なんて来るわけないんですから(笑)。

―確かに。

モンキー:それも終戦まもなくでしょ、だから来るわけないんだよね。だけどそういう事になってますね。ウィキペディアに書かれている事は全部嘘とは言わないけど、自分で直したいと思うところがたくさんありますよ(笑)。

神田の紀伊國屋書店で『MAD』を漁っていた

アシスタント・加藤輝彦

―先ほどご覧になって頂いた「漫画ストーリー」のコピーですが、文人さんに「8ページで何か描いてこい」と言われてこちらを描いたんですか?

モンキー:そうです、そうです。ペンネームも「マニア・ぐるうぷ」そのままでしたね。

輝彦:この頃、僕は一切タッチしてないよね。

―『ルパン三世』を始めた時は、お二人だけで描かれていたんですか?

輝彦:僕は徹底してアシスタントの仕事をしてね、キャラクターやストーリー、メインの絵は兄でしたね。

―週刊の作品を2人だけで描かれていたんですか?

モンキー:そうそう。

輝彦:当時、アシスタントは俺以外いなかったからね。徹夜徹夜で余裕がなかったね。

―変な話ですが「もっと速くやれよ」とかは無かったんですか?

輝彦:時間が合うようにちゃんとやってるから(笑)。1枚出来たら次の1枚が来るって感じでしたらからね。

モンキー:何も言わなくても、ただ渡すだけでやってくれるからね。

―阿吽の呼吸というか、兄弟だからこそですよね。

輝彦:あぁ懐かしいなぁ~。

モンキー:とにかく時間がなかったんですね。徹夜徹夜でも僕は原稿が遅い方でしたから、印刷所まで行って原稿を描いたこともありますしね(笑)。

―ギリギリですね。

モンキー:連載中は最後まで遅かったよね。

輝彦:他の漫画家は机に向かって描いてるんだけど、僕たちは貧乏だったから、壊れた机であぐらをかきながら描いてたんだよ。貸本屋で描いていたときは、ミカン箱だよ(笑)。

―本当に漫画のような世界ですね。

輝彦:当時、ミカンの箱っていうと木の箱だったんだよね。今は段ボールだけど。貸本屋時代はそれで描いていたよ。当時、立派な机なんて買えないからね。

モンキー:漫画っていうのは、お金持ってない人が読む娯楽で、描く方も設備投資がそんな掛からず、最低限の道具だけで描けたんだよね。それこそ描く方も貧乏人、読む方も貧乏人でね(笑)。でも、あのときに「漫画アクション」が創刊されて、僕としては幸運でしたね。あれがなかったら『ルパン三世』は生まれてなかったですから。

輝彦:清水さんにしてみたら冒険だったんだろうね。

モンキー:「漫画アクション」を創刊したのは、清水さん的に自信があったのかは分からないけど、内心やっぱり冒険だったんだと思うよ。それこそクビ覚悟でやったんじゃないかって。その成功の要因の一つに、僕の漫画があったのかなって気がしなくはないけどね。

(2017年11月6日、モンキー・パンチ先生のご自宅にて)

双 葉 社