暮れ始めた透明な空を背景に、白いベンチに腰掛ける木之元蒼海は、美しかった。
 微風に揺れる髪。少し厚く艶のある唇。大きな黒い瞳。均整の取れた体の曲線。自己主張せずとも自然と視線を誘導してしまう、形のいい胸。 
「結構貞子っぽかったでしょ」
 蒼海は言い、先刻まで撮影のために着ていた薄い白装束を掲げた。
 彼女は東京工科芸術学院・演劇ミュージカル学科の二年生で、映像クリエイト学科・友野班の夏製作映画『死霊の死球式』で、ヒロインの野球部マネージャー、エミリを演じている。主人公ジローをひたすら想いながらも、映画終盤にはゾンビと化し、愛するジローを喰おうか喰うまいか苦悩する難しい役所だ。
 ストーリー原案と、プロデューサーは俺。撮影は順調で、いくつかのシーンを残すのみだ。
 しかし、今日は『死球式』の撮影ではなく、別件で俺と蒼海は、同じゼミの篠田沙弥を引き連れ、埼玉の川越市郊外にある、翔美学院大のキャンパスに来ていた。
 別件とは、蒼海の親友で、翔美学院大美術学部二年の柊凜々子が製作する映像作品の助っ人だ。ゼミやサークルの作品ではなく、十月にある学園祭に個人的に出品するものだという。
『カメラマンが二人必要なんだって。撮影は一日で済むの。助けてあげて、お願い』
 瞳を潤ませた蒼海に懇願され、断れるわけがなかった。カメラマンのうち一人は俺で事足りる。もう一人、俺が白羽の矢を立てたのが、小柄だがダイナミックかつ繊細なフレーミングと大胆なカメラワークで、講師の評価が高い篠田沙弥だ。
『友達の映像作品を手伝うの? いいよ、足代とメシ代とデザート代と休憩の時のアイス代出してくれるなら』
 人間としてはちっちゃい。
 企画はなんのひねりもない幽霊ドッキリだが、郊外で日が暮れると闇が支配するロケーションだからこそ、成立するのだろう。ターゲットは、学園祭用の作品製作のため、学校に来ている凜々子の友人たちだ。
 凜々子のアイデアは、生身の人間が幽霊を演じるのではなく、先に幽霊を撮影しておき、その映像を暗がりに投影するというものだ。仄かで不気味で幽玄な効果が期待できた。
 ウィッグと白装束と白塗りメイクで幽霊に扮した蒼海の撮影は、大学のアトリエで、三十分ほど前に済んでいた。
『幽霊なのに下着の線が出るのはまずいよね』
 蒼海はそう言って、下着を着用せず、直に白装束を着たのだ! まさに女優魂!
『いいよー、ちょっと足出してみようか。おお、綺麗だね! そのままお尻をちょっと突き出して』 
 カメラを担当した篠田は、悪ノリしていた。
 現在、篠田と凜々子は、撮影した映像を速攻で編集中。俺と蒼海は〝その時〟に備えるべく、一号館正面エントランス前の広場で待機、英気を養っていた。  白い近代的な校舎群とその周囲に広がる田園と雑木林の緑が、夕闇に沈みつつあった。 間もなく午後七時になるというところで、篠田がエントランスから出てきた。
「出来たよ、友野」
 ベンチの手前まで来て、篠田はminiDVテープを俺に手渡した。「だいたい十分でループするように編集したから」
「どんな感じ?」と蒼海。
「エロい」
 篠田は言って、白装束が入った衣装バッグに目を落とす。「生身で脅かすバージョンも撮るかもしれないから、一応衣装も現場に持ってって」
 篠田は言い残すと、校舎に戻っていった。
 また、二人きりになる。
 蒼海が座っているベンチの上で、膝を抱いた。
「ねえ、友野君。こういうオープンなところでも……してみたいよね」
「お、おう」
 俺は沸き立つ獣の本能を理性のジップロックでしっかり封じつつ、クールに決めた。
 ほんのりと朱くなる蒼海の頬。これは縁なのだ。縁とは天の導きであり、俺如きが逆らえるわけもない。つまり彼女とは、そんな関係だ。
 ひと夏のデンジャラスなアバンチュール――女優の衣を脱ぎ捨てた彼女は、人生という舞台を奔放に旅する女豹だった。そして、学校の実習とは言え、映画製作という濃密な共同作業の中で、ヒロインの女優とプロデューサーがムフフな関係になるのは自然なことだった。
 なぜデンジャラスなのか――俺には小原涼子という、高校時代から通算四年間交際している、普段は聡明で綺麗で穏やかで滅多なことでは怒らないが、切れるとブギーマンの十七倍、妖怪マタンゴの二十六倍恐ろしい恋人がいるためだ。
 だが、安定と安心は、男の牙を徐々に削り取ってゆく。心と下半身は別回線で、理性や良識で制御することなど、元から不可能なのだ。自然の摂理、人類が繁栄するための普遍的な機能なのだ。そして、牙は定期的に研がねばならない。
「ちょっと早いけど、現場に行ってようか」
 蒼海が言い、立ち上がった。「セッティングは明るいうちにね」
 俺は幽霊投影用のプロジェクターと撮影機材、衣装バッグを載せた台車を押し、蒼海とともに二号館の裏手、道を挟んだ先にある水上公園に向かった。凜々子によると、終日サボり、音楽学科や演劇学科の自主練、告白から揉め事の処理まで、様々なことに利用されるが、単に駅への近道として利用する学生も多い。
 俺たちはその帰り道で待ち伏せる。蒼海がプロジェクターを操作し、俺が驚くターゲットの表情を撮影する。凜々子は友人たちを俺たちがいる場所に誘導し、篠田は通行人を装いつつターゲットを追い、カバンに仕込んだ隠しカメラで、撮影する。
『お遊びの企画ですけどわたし、真剣ですので』
 そう熱く語った柊凜々子は、ショートボブで丸いメガネをかけた、真面目そうな女性だった。
『頭もいいし、センスもあるけど、ちょっと抜けてる』
 蒼海の凜々子評だ。『そこが可愛いのよね』
 公園中央の噴水広場に差し掛かる。噴水の周囲を半円形にコロシアムのような煉瓦造りの階段が囲み、階段と階段の間には、放射状に通路のような空間が幾筋か走っている。〝通路〟の空間の先には何もなくただ壁があるだけ。ただ、日が暮れると暗がりになるため、時折〝いけないこと〟に利用されたりもするという情報も、凜々子から仕入れていた。
 粒子が細かく幅の広いカーテンのような噴水は、適度にライトアップされ、闇の中、白く淡く浮かび上がっている。
 この噴水が、幽霊投影のスクリーンとなるのだ。凜々子もよく考えたものだ。
 僕は通路の暗がりに小型プロジェクターを置き、VTRデッキと接続、角度を調整、リモコンスイッチで〝幽霊〟を噴水に投影できるようにセットした。
 まだ日が落ち切ってはいないが、噴水は上手い具合に日陰で、映像の調整は出来る。本番では俺の助手になる蒼海が、ターゲットたちの通り道に立つ。

「映してみて!」  俺はminiDVテープをデッキに入れ再生、噴水に〝幽霊〟を投影する。
「位置はばっちりだけど……こわーい、我ながら。水のせいで映像が揺れるから、すごい不気味! リアル! もしかしたら凜々子天才かも」
 これでこちらの準備はOK。俺はリモコンを台車の上に置き、プロジェクターの電源を切ると、台車を押して、噴水を挟んだ反対側の〝通路〟に行き、リアクション収録用のカメラをセットした。
 凜々子たちの作業が終わるのは、午後八時頃で、凜々子が友人=ターゲットたちをここに誘導してくる。
 蒼海が戻ってきた。
「まだ一時間あるけど、一時間早く準備を済ませたのは……」
「わかってるぜ」
 蒼海が通路の奥へと俺の手を引っ張る。俺も俺の中の野獣を解放した。
 お互いの服を脱がし合い、唇を重ねながら、通路の中を移動する。四角く切りとられた空の下、壁に背中を押し付け合い、激しく体を、ソウルを重ね合う。背徳的な時が過ぎ、気づいたらお互い全裸だった。
「蒼海! 友野さん! 予定がちょっと早くなりまして、打ち合わせを」
 突然、凜々子の声が聞こえてきた。俺と蒼海は、通路の出口で、全裸のまま硬直する。
「やっば、凜々子なんで……」
 音が近づき、凜々子の陰がコロシアム前の地面に映る。服を着ようにも、通路のあちこちに脱ぎ捨て、おまけに暗くて、回収する時間はない。
「黙っててもらうよう、説得しよう。お互い体だけだし」
「だめ、凜々子はそういう不貞は絶対に許さない。奥手で恋愛経験もないくせに」
 俺にステディーな彼女がいることは、篠田が扇情的かつ生々しい脚色を加え、凜々子に説明、凜々子は頬を赤くしていた。篠田もこの事実を知れば、面白がって涼子に――
「いないの? 蒼海ちゃん」 
 ついに凜々子がコロシアムに入ってきた。ジロー以上に絶体絶命だった。
「凜々子の抜けてる部分に賭けるしかない」
 蒼海に何か考えがあるようだ。「プロジェクター点けてよ。貞子を見せればきっと逃げる!」
 それだけの出来映えだったのだ、蒼海の幽霊は、と思ったところで再び硬直する。
「プロジェクター、向こうだよ」
 噴水を挟んだ、反対側の通路だ。
「ばか、リモコン持ってるでしょ」
 そうだった。俺は台車からリモコンを取り上げ――たところで三度硬直。リモコンはプロジェクターの電源を入れることは出来るが、miniDVデッキを動かすことは出来ない。
リモコンのスイッチを入れたところで、明るい光が噴水を照らすだけ。
「テープは動かないよ」
 俺は跪く。おしまいだ。妖怪マタンゴがやって来る――
「諦めないで!」
 蒼海の声が、上から落ちてきた。

 結果的に俺と蒼海、涼子の関係は保たれた。
 ドッキリ映像の撮影も滞りなく終わり、結果的に大成功だった。
 蒼海による窮余の策――蒼海は咄嗟に衣装バッグから白装束を取り出して羽織り、噴水の中に突っ込んだ。俺はそこで蒼海に言われた通りに、プロジェクターの電源を入れた。 噴水にはぼうっとした白い光だけが投影された。その中に生身の蒼海がぼうっと浮かび上がった。つまり蒼海自身が、〝幽霊〟の映像を演じたのだ。
 凜々子は悲鳴を上げて逃げ去り、事なきを得た。ただ、『篠田さん逃げて!』という声が聞こえたのが不安要素だった。
 篠田もあの場所にいたのだ。恋バナゴシップ大好きで、小柄なくせに肝が据わり、自らの野望のためには手段を選ばない、自称ラブハンター。
 その篠田沙弥が俺の前に現れたのは、東京工科芸術学院の学園祭、『装芸展』が終了した翌日だった。誰もいない二号映写室で俺と篠田は向き合った。
 篠田は笑みを浮かべていた。邪悪な笑みだ。
「ちょっと見て欲しいんだけどさ」
 篠田はムービーカメラを手にし、開いたビューファインダを僕に向ける。
 噴水と、幽霊――再生されていたのは、ドッキリを撮影した、あの日の映像だった。
 俺は言葉を失った。
「あの時、予定が早まって七時半スタートになったじゃん」
 それを知らせに凜々子がやって来て、俺と蒼海はパニックになったのだ。
 咄嗟の判断で蒼海が演じた幽霊を見て、凜々子が逃げていった隙に俺と蒼海は服を着ることが出来たが、篠田は逃げていなかった!?
「これ、凜々子ちゃん逃げてった直後に撮ったんだけど、本番で使った映像とちょっと違いすぎてやしませんかね?」
 コロシアムの入口から噴水の蒼海を撮影した映像――淡い光に照らされ、噴水に浮かび上がる生身の蒼海。しかし薄い白装束が水に濡れ、ビニールのように透けていた。蒼海の美しくも無防備な裸身。そして、噴水の向こうには様子をうかがう裸の俺! 全てがザッツ無修正!
「涼子、悲しむよねぇ」
 篠田はわざとらしく目尻を拭う真似をする。「いや、これは怒りの大魔神コースかな」
 気がついたら、篠田の前で跪いていた。
「涼子には、言わないでくれ……」
 篠田と涼子は親友同士だ。
「まあ、わたしも鬼じゃないからねー」
 嫌らしくも勿体ぶった口調だ。「前途ある女優のすけすけヌードを、当事者以外に見せるなんて非道なこともしたくないし……」
 篠田が勝ち誇ったような目で、俺を見下ろす。
「俺は何をすればいい……」
「そうだね、見返りはゆっくりと考えさせてもらうよ、友野くぅん」
 その日から、俺は篠田沙弥の下僕となった。