希代の時代観察者による、すぐれた社会批評である。著者自身には時代観察であるとか批評であるという意識はないのかもしれない。だが写真家のまなざしは、時代の表層の向こうにあるものを正確に射る。
「メメント・ヴィータ」という言葉は著者の造語だ。「メメント・モリ(死を想え)」はペスト大流行の中世ヨーロッパで流布した言葉。藤原新也が『メメント・モリ』を上梓したのは日本経済がバブルに向かっていく一九八三年だった。当時、西武百貨店の美術洋書売場で働いていたぼくは、「なんと反時代的な!」と驚いた。それから三十七年後、新型コロナウイルスのパンデミックが襲来すると、藤原はポッドキャストを始めた。そこで放たれた言葉を再編集したのが本書である。感染症と戦争で誰もが死を意識する時代に、敢えて藤原は「ヴィータ(ラテン語で『生命』)」を想えという。やはり反時代的な人。
約四百四十ページもの本書ではさまざまなことが語られている。故郷のことや旅のこと。グッときたのは瀬戸内寂聴や白土三平ら亡くなった人についての思い出。とりわけ『カムイ伝』で知られる漫画家、白土との出会いと交遊は強烈だ。房総の国道一二七号線をオートバイで走っていたら迫力のある鳥の声が聞こえてきた。何だろうと思って近づくと鳥小屋の中に二羽の七面鳥。しゃがんで観察していると背後に作務衣を着て不機嫌な顔をした白髪の老人が立っている。以降、四半世紀にわたる奇妙な交遊が続く。
日常の一瞬から時代の典型的な部分を抽出して分析する手業が見事だ。たとえば宅配便の出張所で手間取っている青年に助言すると「この老害が!」とうなり声を上げられるエピソード。あるいは原宿の交差点を歩く老人の後ろで「こいつ早く死ねばいいのに」と大きな声で言う少女たち。なんて時代だ。
この本には藤原新也が見た過去と現在が詰まっている。世の中は酷くなっているか? いや昔から酷かったのだ。それでもぼくらは生きていく。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
扇谷家の中心だった時子が老齢で施設に入って以降空き家になっていた邸宅の家じまいのため、親族が集まった。ところがそこで時子の予言帳が見つかる。それによると時子は今年の十一月に死ぬらしい。
相続しても持て余す大きな屋敷は、市に寄付すれば文化財として保存してくれるらしい。だが枯れた桜を伐採するのが条件だ──そんな大人たちの話し合いを聞いた大学生の立夏は、内心穏やかではない。だって桜の下には、曽祖母の時子がかつて殺した人物の死体が埋まっているのだから。
いやいやいや、ちょっと待って。ここまででもだいぶおかしいぞ? 予言? 桜の木の下の死体?
実はこの一族、女性だけが何らかの超能力を持って生まれるのである。時子は未来予知、千里眼の者もいる。そして立夏は桜の木に宿る霊と会話ができる。だから桜を切ると聞いて焦ったのだ。
死体を巡るミステリ的興味ももちろんあるが、物語はここから戦前から現在に至るまでの時制を行き来して、扇谷家のファミリー・ヒストリーが語られるのである。いやあ、これが滅法面白い!
超能力の秘密を守るため結婚相手は複数の近しい一族だけと決められている。その宿命に従う者がいる一方で抗う者もいる。飛び出る者もいる。超能力というから構えてしまうが、ここにあるのは「それぞれが悩みを抱えた、普通の家族の日々」だ。親子で言い争ったり、年下のいとこの面倒をみたり。それがすごく、いい。世代ごとに変わる価値観が、時代の流れを映し出す。笑ったのは千里眼で息子の妻の出産を覗く姑! 何だその超能力の使い方は。
何かを持って、あるいは何かを背負わされて、私たちは生まれる。遺伝する超能力はそのメタファーだ。そのこと自体に幸不幸はなく、それとともにどう生きるかこそが大事なのだと伝わってくる。
濃密な家族史なのに読み心地は実に軽やかだ。個々の物語をもっと知りたいので、スピンオフをぜひ!
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
人間のダークサイドを見つめる美輪和音の作品ということで、本を開く前から覚悟はしていた。それでも読んでいる最中に、何度も目を背けたくなった。この物語は、本当に容赦がない、まさに、暗黒のミステリーなのである。
四階建てで部屋数七戸のマンション「プチシャトー市毛」の前にある坂道の側溝で、五~六歳くらいの女の子が発見された。意識不明の重体だ。雪の上に残された靴跡から、女の子はマンションから坂道に出たらしい。しかしマンションには、該当する人物がいなかった。女の子はいったい、何者なのだろう。
本書は、マンションの住人の視点を、次々と切り替えながら進行する。ある一家が小学五年生の娘を虐待しているなど、住人たちの問題が、どんどん露わになっていく。また、フリーライターだという山田百合花が、住人たちに取材を重ねる。やがてマンション・オーナーの娘一家が、大きな秘密を抱えていることが明らかになっていくのだった。
物語の美点は、巧みなストーリー展開だろう。側溝で倒れていた女の子の正体で、読者の興味を強く惹きながら、登場する大人と子供たちのキャラクターと、置かれた状況を掘り下げていく。そして中盤で女の子の正体が判明すると、一気にサスペンスが盛り上がる。
ページを捲る手が、もどかしく思えるほどの面白さだ。さらに、新たな殺人も起こり事態が錯綜。その果てに浮かび上がる、諸悪の根源ともいうべき人物の、邪悪な肖像に戦慄した。
しかも同時に、山田の正体と目的も判明。山田が、いつもメロンパンを一リットル紙パックのコーヒー牛乳で流し込むというユーモラスなシーンにも、深い意味があって感心した。彼女の抱える事情が、この事件と重なり合うことで、テーマを際立たせる構成も見事だ。内容は重いが、ラストには希望があるので、臆さず読んでほしい。今年のミステリーの収穫といいたくなる、優れた作品なのだから。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
「保育園落ちた日本死ね!!!」
この言葉がネットに投稿されたのは二〇一六年二月のこと。「死ね」という強い言葉を使わざるを得ないほどの投稿者の無念は、他人事とは思えなかった。私が息子を区立保育園の一歳児クラスに入れることができたのは、僥倖だったと今でも思っているし、通っていた保育園には感謝しかない。
本書は職場体験先に保育園を選んだ、中二の風汰の五日間を描いた『天使のにもつ』に連なる連作短編集だ。中二だった風汰が二十二歳の保育士となって働いているのが、「すずめ夜間保育園」。保育園とはいっても認可外なので、いわゆるベビーホテルである。園長が「とにかくいま困っている親子がいるなら動かないと」と始めたのが「すずめ夜間保育園」で、その園長のポリシーがとにもかくにも素晴らしいのだ。
「子どもの幸せはね、子どもだけを見ててもだめなの。子どもを幸せにするには、親も幸せにならないと」
親のために子どもが犠牲になるなんて、あってはならないことだけど、子どものために親が犠牲になることもないんですよ。子どもだから、子どもなのに、親だから、親なのに、なんて、そんな言葉は、呪いでしかない。あぁ、本当に、この園長というか、作者のいとうさんの言葉を心の底から讃えたいし、この言葉が必要な親子、沢山いると思う。
本書に登場するのは、まさに「いま困っている親子」たちで、そんな彼らが「すずめ夜間保育園」に支えられ、子育ての日々の呼吸が深くなる様がいい。同時に、そこで働く保育士たちのドラマも描かれていて(保育士としてはまだまだ新米の風汰が、いい味だしています)、そちらもたっぷり読ませる。
読み終わったとき思ったのは「すずめ夜間保育園」のような園が、実際にあって欲しいということだった。昼職、夜職問わず、親も子も安心して日々を助けてもらえるような、そんな園が増えていきますように。それが、親と子の笑顔に繋がるはず。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
なんとも掴み所がないが、この静謐な読み心地は確かに知っている……。読後、最初に思ったのはそれだった。
ざっくり摘むと、本作は丸の内にオフィスがあるような大企業で働く31歳の平凡な男・松谷遼平が、隠善つくみというファム・ファタルに出会うことで思わぬ人生の変転を迎える物語、ということになるだろう。
だが、恋愛小説ではない。二人の関係性は恋と呼ぶにはあまりに異質だ。〝ソウルメイト〟のようなぽっと出の概念で説明できるものでもない。
他の登場人物たちも特異だ。遼平がひどい仕打ちで捨てることになった幼馴染の元恋人やグレた弟とその友人、取引先の人物などが次々登場しては、普通なようで普通でない選択を繰り返す。それは時に愚かさすら感じさせるが、彼らもまた単なる行人ではなく、それぞれが重荷を抱えている。よって、本作は群像劇と言っていいのかもしれない。
けれどももっと大きな企図が底にあるのは確かだ。なぜなら、遼平は重大な局面に至ると必ず見えざる手に導かれ、次のステージに運ばれていくのだから。
タイトルの「つくみ」はもちろん遼平の妻の名ではある。だが、同時に土地の名でもあり、そこがあらゆる事象の震源であることが明かされる。しかも、背景には史実上の自然災害……と呼ぶにはあまりにおとぎ話めいたカタストロフィが見え隠れするのだ。
終章が近づくにつれ、生臭い男女の業を描いていたはずの物語がどんどん地上の営みを離れていく感覚が積み重なっていき、読了後はついに冒頭に記したような茫漠たる既視感に襲われたわけだが、やがてふと腑に落ちた。
ああ、これは〝運命〟そのものを描く小説なのだ、と。まるでギリシャ悲劇やアーサー王の物語のように。
現代日本を舞台とする非英雄の叙事詩。類を見ないこの読み心地は、〝小説〟を愛する向きにこそ試してみてほしい。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
配信された動画を視聴するとき、画面の向こう側には同じ現実を生きている人間がいる。しかし私たちはそれを現実ではなく、どこか遠くの「コンテンツ」として受け取ってはいないだろうか? あるいは別の言い方もできる。画面を隔てた距離があるからこそ、配信者は現実をコンテンツとして私たちに振る舞えているのだと。
本作で描かれるのは、配信が終了したあとのコンテンツではない「現実」だ。動画配信が定着した令和のいま、収録作(全五編)に登場する配信者のレパートリーも多種多様だ。たとえば「暴露系」では暴露系配信者の千里が、知り合いの記者である猩野から競合相手の暴露ネタを提供され、ネタの裏取りを進める。「考察系」では経営者の湾田によって考察系配信者が集められ、自殺した配信者・寺沢の死の真相を考察していく。「正義系」では痴漢逮捕の直後に線路に飛び込んだ正義系配信者「ミツルギサバキ」の自殺の動機を追う。異なる題材を存分に活かした物語──コンテンツは一気読み必至だ。
しかし読み進めるうち、恐ろしくもなってくる。なぜならどの短編も、配信の「終了」前後で区切られていた現実とコンテンツの境界線が、徐々に溶けていくのだから。配信終了後の現実までもがコンテンツとなっていくさまに、本当に配信は終了したのだろうか、そもそも配信が終了することはあるのだろうかと背筋が凍る。
現実をコンテンツとして配信する──それはときに、配信するつもりのなかった「現実」すらもコンテンツにしてしまう。本作が描くのはカメラを向ける配信者が跋扈することで、二十四時間三百六十五日コンテンツ化してしまった現実だ。そしてその現実を生きる私たちは、提供されたこの物語をはたして画面の向こうにある「遠く」のものとして受け取れるのだろうか? 次にカメラを向けられ、「コンテンツ」として消費されるのはあなたかもしれない──背後を振りかえらずにはいられない名作が揃っている。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
大沢在昌は、〈天使〉シリーズの河野明日香、〈魔女〉シリーズの水原、『帰去来』の志麻由子、『冬芽の人』の牧しずりら魅力的な女性主人公を描いてきた。その原点が著者が初めて女性を主人公にした本書で、重要な作品ながら入手難だっただけに待望の復刊といえる。
戸籍と国籍を失ったトモコは、相続した巨額の遺産とCIAで身に付けた特殊技術を武器に、夫を殺した組織と戦うため日本に渡る。同じ頃、暴力を振るうヒモのために風俗店で働いていたカオリは、指名されホテルへ向かう。そこで待っていたのは、カオリの本名が智子ということを掴んでいたトモコで、智子の身分証明書をマンションなどの契約時に使うため声を掛けたのだ。最低の生活から抜け出すため誘いに乗った智子は、トモコと敵との戦いに巻き込まれていく。
トモコは、アメリカ軍の特殊部隊員、日本のキャリア警察官僚、暴力団までを動かす巨大な敵に何度も襲撃される。現在のように個人が情報を発信できるネットが発展していれば敵組織の情報をSNSにアップできるし、スマホやGPSで仲間との連絡や位置情報の確認も簡単に行える。こうしたテクノロジーに頼れないトモコは、知識と経験、コミュニケーション能力で窮地を脱し逆襲の機会をうかがうだけに、人間と人間のぶつかり合いが生む圧倒的なサスペンスに引き込まれてしまうだろう。
近年は、最先端とは異なるデザインやアナログ感が残る家電などに興味を持つ平成レトロがブームになっている。バブル時代の風俗を活写している本書は、当時を知る読者には懐かしく、平成レトロが好きな若い世代には新鮮に見えるのではないか。
アメリカに留学し性差別が激しい日本に帰国しない道を選んだトモコは、自分で人生を切り拓いてきた。それとは対照的に、やりたいことが見つからず流されるままに生きてきた智子が、トモコと共に戦ううち成長する展開は、智子のように将来の展望が見えないと考えている読者に勇気を与えてくれるはずだ。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
元自衛隊の特殊工作員だった豊川亮平は、インドネシアのバリ島の爆破テロで恋人の詰田芽衣を亡くした後、記憶喪失と偽って姿を消し、現地を放浪しながら次々とテロ組織を襲撃し、ついには壊滅に追い込んだ。
その神出鬼没ぶりから「ドリフター(漂流者)」のコードネームで呼ばれることになった豊川は、テロ組織の背後に中国の秘密組織「浸透計画」がいたことを知る。芽衣は「浸透計画」の工作員であり、組織を抜けようとして消されたのだ。
「ティーチャー」と呼ばれる車椅子の天才ハッカー宮間功一郎と組んだ豊川は、芽衣の姉で「浸透計画」の工作員だった朱莉とも協力しながら、二度にわたって「浸透計画」の大がかりなテロを阻止してきた。
最新刊の本書では、豊川はティーチャーの指示で北海道中標津の貝澤牧場に牧童として潜伏している。この地に建設されたメガソーラー事業に「浸透計画」が関わっているようなのだ。
やがて中標津に自衛隊のヘリが墜落。瀕死の副操縦士は、なぜか現場に急行した豊川のコードネームを知っており、彼に積み荷を託して息を引き取った。
かくして、「天空の悪魔」と呼ばれる積み荷のアタッシェケースを巡って、自衛隊の秘密部隊、なぜか再び「浸透計画」側についた朱莉、豊川と、三つ巴の壮絶な争奪戦が始まった――。
ふたりきりで牧場を経営する貝澤夫妻を始め、防衛省の浅野一佐、橋爪三尉、「浸透計画」の幹部アンディ・フォンと、今回も癖のある登場人物が揃い、虚々実々の駆け引きが繰り広げられるのである。
肉弾戦と頭脳戦の両方に加え、本書では豊川と朱莉のロマンスもストーリーの軸になっており、北海道に北朝鮮のミサイルが落下するド派手なクライマックスまで、読者は一気に連れ去られてしまうだろう。
主に警察小説で活躍している著者が、アクション・ハードボイルドに挑んだ新境地の書き下ろしシリーズ、緊迫の第三弾、どうぞお見逃しなく!
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)
作家・北方謙三は数年後に何を書くか、いつも考えているのではないかと思う。
一九八五年、秘書として雇われたときに頼まれたのは「時代小説の資料調べ」だった。北方謙三は三十代、ハードボイルド小説の旗手として人気はうなぎのぼりの時期だ。「九州の南北朝を書く」という決意から四年後『武王の門』が上梓された。
当時、現代小説と並行して南北朝ものの連載も続け「月刊北方」と言われるほど書きまくっていたある日、「剣豪小説を書くための資料を集めろ」と厳命された。一九九〇年ごろのことだと記憶している。
ネットなど無い時代、資料は本に当たるしかない。図書館に通い、有用な本は古書店で求めた。剣術流派の本をどれほど買っただろう。北方謙三はそれらを熟読していたはずだ。
さらに当時は剣豪小説の大家がたくさんおられ、北方謙三はその方々に知恵をお借りした。津本陽氏に示現流の教えを請うたとき、構えから指の向きまで教わったと嬉しそうに話してくれたのを良く覚えている。
馬庭念流のビデオを手に入れ、極意の「抜け」の体さばきを観たことも「一人の剣豪」を創作する重要な要素になったのではないか。
初の剣豪小説『風樹の剣』は一九九三年、小説新潮二月号から開始された。挿画は百鬼丸氏。見開きページ八割が日向将監の不気味な姿だ。毎回、連載は挿絵家との勝負だった。
二〇一〇年に五巻目の『寂滅の剣』で完結するまで十七年の時が流れた。日向景一郎は四十歳になり、弟の森之助は二十歳。その間、他者との死闘に次ぐ死闘が繰り広げられ、ふたりの剣鬼が育った。そして最終巻の最後、運命づけられていた二人の対決で幕を閉じる。徹頭徹尾、日向景一郎の小説であったと思う。
今回、初めて五巻をまとめて読んだ。「剣豪小説を書く」という目的は見事に果たされたと心の底から感心し、凄い小説家のそばにいたのだ、とその幸せを改めて噛みしめた。
(ブックレビュー:『小説推理』2025年7月号より)